紫雲丸沈没事故


−経緯−

昭和30年5月11日、高松と宇野を結ぶ国鉄・連絡船「紫雲丸」が沈没し乗客781人の内168人が死亡した。この日は風や波は穏やかであったが濃い霧が付近を覆っていたなかで紫雲丸は高松を出港した。ところが濃い霧のため反対を航海中の貨車輸送船「第三宇高丸」と衝突、紫雲丸は数分で沈没した。このため救命胴衣などを着けることができず海に放り出された乗客が多数でてしまった。

乗客の中には修学旅行の小・中学生が多数乗船しており、溺れながら「お母さん助けてー」と叫ぶ声が霧の中から聞こえ、一層人々の涙を誘った。

−原因−
当日の気象状況は濃霧により視界150m以下と最悪の状態であった。紫雲丸は衝突の6分前に第三宇高丸の信号を確認し応答している。しかし、両船とも10ノット以上の速度で航行を継続、午前6時56分頃紫雲丸と第三宇高丸は衝突した。紫雲丸は衝突と同時に右舷から大量の海水がなだれ込み、発電機や船内灯が瞬時に消えた。よって、船長の指示・命令は船内放送、電話・無線が一切使用できず船員に伝わらなかった。

沈没までにわずか5分。乗船客に救命胴衣や非常時用のボートを降ろすこともできず、泳げない小中学生を中心に女子生徒100人中81人の犠牲者を出した。この中には、自分の荷物を取りに再び船室に戻った行動が更に犠牲者を大きく出してしまった。

事故の原因は紫雲丸の船長が海上の衝突防止法として、左舷対左舷で危険を回避しなければならないのに右舷対右舷、即ち左転をしたため衝突したと見られている。船長は自らの責任をとったのか、最後まで操舵室に居残り、紫雲丸と運命を共にした。

事故の原因はレーダーや汽笛に頼りすぎて見張は十分であったとは言えず安全運行を怠っていたとされた。前年の青函連絡船「洞爺丸沈没事故」に続く国鉄の事故に世論の非難は高まり、長崎国鉄総裁が責任をとって辞任した。

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沈没現場で溺れている乗客


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