日航「もく星号」墜落事故


−経緯−
昭和27年4月9日午前7時33分、羽田空港を離陸した大阪経由・福岡行きの日本航空「もく星号」マーチン202型(プロペラ双発機)が30分後に消息を断った。この飛行機には米国人のスチュアート機長ら乗員・乗客37人が搭乗しており、八幡製鉄社長やタレントの大辻司郎ら著名人も含まれていた。

海上保安庁、米軍、日航が合同で捜索した結果、翌日の10日朝、米軍機が大島の三原山御神火茶屋付近で飛び散った「もく星号」の残骸を発見した。連絡を受けた救援隊が現場に駆けつけたが、37人全員の死亡を確認する最悪の結果となった。墜落現場は、遺体やハンドバック、靴などが散乱し地獄絵図のようだった。

−原因−
当時の日本は、講和条約前で連合国総司令部(GHQ)の管轄下に置かれていた。このため、日本の航空産業業務は禁止されており、日航は米国の航空会社であるノースウエスト社に業務委託をしていた。スチュアート機長は、ノース社からの派遣パイロットで来日僅かの勤務であった。

航空管制も米軍基地の管理下で関東エリアは埼玉県入間市のジョンソン基地(現、航空自衛隊・入間基地)のコントロールタワーが管制していた。このジョンソン基地の管制指示を羽田空港の同じく米軍の管制官が航空機に伝えるという仕組みだった。

当日のジョンソン基地の管制官は「もく星号」に《羽田空港を離陸した後、館山から大島に向けて高度2000フィート(約600メートル)を維持せよ》との指示を出した。この指示通りだと大島の三原山は海抜2400フィート(約720メートル)であるため衝突必至である。このため、機長は管制官に「高度2000フィートは低すぎる。何かの間違いではないのか」と問い合わせしている。

その結果、ジョンソン基地の管制官から「高度2000フィートは羽田から館山までの飛行高度である」との訂正をしている。これに納得した機長は定刻通り風雨が強まる曇天の中、離陸を開始した。

が、どうした訳か「もく星号」は館山を通過した後も高度2000フィートを維持して三原山の中腹に水平で衝突墜落したのだった。館山から大島に向けて通常、高度6000フィート(約1800メートル)に上昇するはずがどうして2000フィートのままだったのか原因は今でも謎のままになっている。

管制官の指示ミスなのか、機長のミスか、或いは近くを航行中の米軍の訓練機を避けようとして高度を降下したのではないかと見る専門家もいた。運輸省は原因追求のためジョンソン基地の管制塔と「もく星号」との交信テープを要求したが米国側は提出を拒否し続けた。現在も封印したままになっていることから、米国管制官のミスが今でも囁かれている。

尚、「もく星号」遭難の第一報後、米軍の捜索隊が《静岡県浜名湖16キロ沖で「もく星号」を発見。乗員・乗客は無事救助》の連絡で羽田空港に駆けつけた家族は安堵する。翌日の地方紙は大辻司郎無事救助「墜落体験は漫談のネタになるよ」とのコメントを報道した。これが、まったくの捏造記事であったことも後日大きな批判を呼んだ。

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「もく星」号の残骸(大島・三原山山頂付近) マーチン202型機


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