女子高生・コンクリート詰殺人事件


−経緯−
昭和63年11月25日午後8時頃、東京都と埼玉県の境に位置する足立区、三郷市周辺を根城とする不良少年グループのリーダ宮乃裕史(仮名/当時18歳)は、両親が不仲で高校を中退した同じ境遇の港伸治(仮名/当時16歳)を誘い、金をひったくる目的で埼玉県三郷市にバイクに乗って出かけた。

そこへ、アルバイトを終えて自転車で帰宅途中の県立高校3年生の古多淳子さん(仮名/当時17歳)を見つけた宮乃は、港に「あの女を思いっきり蹴飛ばせ」と命令。港は命令通りに淳子さんの腰を思いっきり蹴飛ばして、自転車ごと転倒させた。

すると、後から宮乃が出てきて、淳子さんに「大丈夫ですか。あいつは気違いだ。僕も脅された。ここは危ないから送るよ」と言葉巧みに声を掛け、途中から「逃げると殺す。俺はヤクザだ」などと脅して、ホテルに無理やり連れ込んでレイプした。その後、ホテルの部屋から電話で、自宅に戻っている港に「今から面白いものをみせてやる」と言って、東京都足立区綾瀬にある港の家の二階に淳子さんを無理やり連れ込んだ。

そこで、同じ不良仲間でサブリーダの小椋譲(仮名/当時17歳)と渡鍋恭史(仮名/当時17歳)を加えた4人で、人間の仕業とは思えない想像を絶する残虐な行為を41日間にわたって繰り返した。

−残虐な行為−
宮乃らは淳子さんを輪姦して、あきると殴る蹴るを繰り返した。タバコの火を体中に押し付ける、飲料のビンや鉄棒を陰部に挿入する、ロウソクで火あぶりする、生理現象すらトイレを使わせない。紙コップで尿を出さすと、それを飲ませたり・・・(これ以上は、あまりにも淳子さんが哀れで記載せず)。この間、港の家庭内暴力に恐怖していた両親は、淳子さんを解放するどころか、「家出なら早く自宅に帰りなさい」などと言って無関心を装った。

淳子さんは、常に見張りを付けられて監禁されていた。更には、宮乃らに「逃げたら、お前の家族も殺す」などと脅されていたため、逃げ出すことができなかった。次第に、体力が衰え肉体的にも精神的にも限界だった淳子さんは、必死で「家に帰して欲しい」と哀願するが、その度に過激な暴行が待っていた。この頃には、ロウソクの火あぶりでロウが目に入り失明し全身は傷だらけで、かろうじて息をしているだけだった。

明けて昭和64年1月4日、宮乃はマージャンに負けた腹いせに淳子さんに殴る蹴るの暴行を加え、小椋、港、渡鍋も加わって4人で暴行を繰り返した。宮乃は、1.7kgある鉄アレイを淳子さんの腹の上に落としたり、 歌を歌いながら、イントロのところで奇声を上げて蹴り上げたりした。その後、逃げないようにガムテープで淳子さんの体を縛って4人はサウナに行った。この時、淳子さんはついに力尽き死亡した。尚、淳子さんへの輪姦は、宮乃らの誘いで付近の不良仲間数十人も犯行に加わっていた。これらの仕業は、あまり表にでていないが。

翌日未明、港の兄から宮乃に「淳子さんが死んでいる」と連絡を受けた。そこで、港の家に集まった4人は、淳子さんの遺体の処理について協議した。そこで、遺体をドラム缶に入れてセメントで固めて東京湾に捨てることを思いつき実行した。

4人は、淳子さんの遺体を入れたセメント入りのドラム缶を車に乗せて、江東区若洲海浜公園の埋め立て地に来た途端、怖くなって雑草が生い茂る空き地にドラム缶を遺棄して逃げ帰った。

−犯行がバレる−
この年は昭和天皇が崩御し元号は平成になった。宮乃と小椋は、1月23日(ドラム缶遺棄から18日後)、昨年の12月に足立区のホステス(当時19歳)を乱暴したとして婦女暴行容疑で逮捕された。その取調べの際、捜査官が「人を殺しちゃだめじゃないか」とカマをかけた所、宮乃は小椋が淳子さんの殺害を自供したと勘違いして観念したのか、「すみません、殺しました」と淳子さん殺害を自供して再逮捕された。 

-公判-
平成3年7月12日、二審の東京高等裁判所は、宮乃に懲役20年、小椋に同5年から10年以下、港に同5年から9年、渡鍋に同5年から7年を言い渡して刑が確定。少年法の壁ということだが、犯した罪に対してあまりにも軽い刑であった。

その後、仮出所した小椋は養子縁組で神作と姓を変えていたが、平成16年5月19日に女性問題から男を車のトランクに入れて連れ回し暴行。平成16年5月19日に懲役4年が確定した。いずれにしても、彼たちから反省の言葉は聞こえてこない。宮乃も含めて全員が出所している。貴方の隣に彼たちがいるかもしれない。

淳子さんに心からご冥福をお祈りいたします。


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