あさま山荘事件(連合赤軍)


−経緯−
昭和47年2月19日午後3時過ぎ、連合赤軍の坂口弘(当時25歳、東京水産大学中退/京浜安保共闘)、坂東国夫(当時25歳、京大卒/赤軍派)吉野雅邦(当時23歳、横浜国立大中退/京浜安保共闘)、加藤倫教(当時19歳、東海高校卒/京浜安保共闘)とその弟(当時16歳)の5人は群馬県榛名山中の軍事訓練中、警察の包囲網が迫っていることを察知し3日間山中を彷徨い群馬県軽井沢町にある河合楽器の保養所「あさま山荘」に乱入した。

連合赤軍は、管理人の牟田泰子さん(当時31歳)を人質に取り219時間の攻防を展開した。あさま山荘は山の斜面に達つ建物で、正面入り口前の道路は狭く反対側は広大な斜面が広がっており、機動隊が突入するには不利な条件であった。

連合赤軍は、ライフル銃や散弾銃で完全武装をしており機動隊に向けて銃撃してきた。このため機動隊も迂闊には近寄れず人質の安否も分からない中、催涙弾、放水で揺さぶるほか手立ては無かった。篭城から四日目の午前11時過ぎ、民間人の田中保彦が機動隊の警戒線を突如突破してあさま山荘に近づいた。田中は連合赤軍に向かって「私は医者で新潟から来た」などと話しかけた。連合赤軍の吉野は機動隊と勘違いして管理人室の押入れから射撃した。田中は頭を撃たれて3月1日に病院で死亡した。

あさま山荘篭城10日目の2月28日、篭城210時間を超えて人質の泰子さんは限界であると判断した警察は強行突破を図る。午前10時、玄関前に横付けしたクレーン車が振り出すモンケンというビル解体工事に使う鉄球が、あさま山荘の壁を破壊する。そこへ機動隊が突入し激しい銃撃戦が展開された。午前11時27分、警視庁特科車輌隊の高見繁光警部(当時42歳)が散弾銃で撃たれて即死。同54分警視庁第二機動隊長の内田尚孝警視(当時47歳)はライフル銃で狙撃され死亡。同隊の大津高幸巡査(当時26歳)は散弾銃で撃たれ左目が失明する重傷を負った。

機動隊は、犠牲者を出しながら山荘内のバリケードを突破し午後6時20分、5人が立て籠もっていた「いちょうの間」になだれ込み5人の逮捕と人質の泰子さんを無事救出した。


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あさま山荘


−総括−
彼らを逮捕して更に世間が驚く事実が判明した。連合赤軍最高幹部である永田洋子や森恒夫(2月17日群馬県妙義山の軍事訓練のアジトへ戻る途中、逮捕)らが中心となって行われた軍事訓練で「ブルジョワ者」と烙印されたメンバーは、次々と「総括」の名のもとに12人がリンチで殺され迦葉山に埋められた。メンバーたちは互いに仲間をけん制し合い次はオレの番かと戦慄を覚えた。

警察が現場を掘り起こし12人の遺体を発見したが、遺体は苦しんで自ら舌を噛んでいる者、肋骨が何本も折れている者、男女の区別がつかないほどの無残な亡骸だった。
 
−連合赤軍とは−
連合赤軍はどのようにして生まれたのか。
昭和44年5月、共産主義同盟(ブント)から13人が「第一次赤軍派」を結成した。ブントは「東大安田講堂攻防戦」や「安保闘争」の学生運動の中心的役割を担った部隊であった。そこから更に武装蜂起で革命を目指したのが『赤軍派』となる。赤軍派最高幹部議長の塩見孝也(昭和45年3月15日、破壊活動防止法違反で逮捕)は同年9月4日、「赤軍派大政治大会」を開催し政治危機の客観的成熟・前段階蜂起・世界革命戦争を打ち上げた。彼の言う前段階蜂起とは何か?

それは前衛軍による機動隊せん滅と政府中枢占拠・前衛軍による大衆の武装・軍団化・権力機構の樹立と内戦の持続という。そして、彼らは自ら前衛軍をもって任じた。この赤軍派は世界革命の名のもと「よど号ハイジャック」、「M資金作戦(革命のための金融機関への襲撃と資金作り)」などの犯行を繰返し社会の治安を脅かした。

一方、昭和42年に日本共産党と中国共産党の対立によって、日本共産党は親中国派の党員を除名した。このメンバーとブントの分派が毛沢東思想を基本とする「日本共産党神奈川県委員会」を結成。その武装集団が『京浜安保共闘』である。彼らは「武装闘争によって政権が達成される」として在日米軍基地への爆破事件を繰り返していた。

昭和46年12月31日、森恒夫率いる赤軍派と永田洋子率いる京浜安保共闘は互いに妥協しあい《連合赤軍》を結成した。この妥協は当初から無理があった(赤軍派は毛沢東思想の再評価と京浜安保共闘は反米愛国の基本路線を捨てた)。が、武力革命を起こす点は完全に一致していた。
そこで、革命戦士として軍事訓練をするため群馬県・妙義山をアジトに訓練を行っていた。
この情報は警視庁公安課も察知しており大規模な山狩りの中で永田や森ら幹部が逮捕。更に逃走した5人が「あさま山荘」で篭城したのであった。
連合赤軍29人中14人(内12人が迦葉山の軍事訓練)が総括リンチで死亡。15人が逮捕された。

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総括の名のもとに殺されて埋められた現場 妙義山で逮捕された森恒夫と永田洋子


−連合赤軍から日本赤軍へ−
昭和46年、赤軍派は京浜安保共闘と統合して《連合赤軍》を結成したが「あさま山荘」事件で主要幹部が逮捕され壊滅状態となった。その頃、赤軍派は「国際根拠地論」の方針を打ち出す。いわゆる「共産主義国に渡り、その国家から援助を受けて軍事・政治教練を実施し世界革命を起こす」という活動を開始する。その最初の行動が田宮高麿ら9人の「よど号ハイジャック」事件であった。もう一方が重信房子らが中東のレバノンに渡りパレスチナゲリラ(パレスチナ解放人民戦線)と連携して『日本赤軍』が誕生した。重信は、連合赤軍と決別宣言し独自の路線で革命活動を始める。

●昭和47年5月30日
イスラエルのテルアビブ空港乱射事件
日本赤軍の奥平、安田、岡本が自動小銃と手榴弾で24人を殺害。80人以上が負傷。奥平と安田は死亡。

●昭和48年7月21日
『日航ジャンボ機ハイジャック事件』
日本赤軍の丸岡ら5人がパリ発東京行きのジャンボ機を乗っ取り人質解放後、機体を爆破。

●昭和50年8月
『クアラルンプール米大使館占拠事件』
マレーシアの米国大使館を占拠して、日本に投獄中のメンバー釈放を要求。超法規的措置で5人を釈放。

●昭和52年9月
ダッカ事件
日航機を乗っ取り日本で投獄中のメンバー釈放を要求。超法規的措置で6人を釈放。

上記の事件(テロ)は氷山の一角で日本赤軍は世界的な規模でテロ活動を繰り広げていった。

日本赤軍の最高幹部・重房信子は平成12年11月18日、日本に帰国していたが警視庁公安部によって京都のホテルで逮捕された。

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重信房子 奥平純三



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