全日空雫石衝突事故


−経緯−

昭和46年7月30日午後2時2分頃、千歳発羽田行き全日空58便のボーイング727型機と航空自衛隊第一航空団松島派遣隊所属の訓練機(F86Fジェット戦闘機)が、岩手県雫石の上空28000フィート(約8500メートル)で空中衝突を起こした。全日空機は墜落し乗員・乗客162人が死亡。自衛隊の訓練機は、緊急脱出して教官の隅太茂津一尉と訓練生のI二曹は無事だった。

訓練機の2機は、航空自衛隊松島基地を離陸し訓練空域を目指した。訓練空域に入ると、教官の隅教官が予告なしに左右の急旋回を繰り返し、後方上空を飛行しているI二曹が、等間隔で追尾する訓練をしていた。午後2時2分、隅教官を追ってT二曹の訓練機が羽田に機首を向け航行している全日空機に接近し、回避する間もなく訓練機(時速840km)の右翼後縁が全日空機(時速900km)の水平尾翼に接触。このため訓練機は機首が上向き、胴体前部の下面が全日空機の垂直尾翼を直撃した。

衝突した訓練機は、背面飛行となりながらも奇跡的に脱出ができた。全日空機は、衝突後まっすぐに飛行していたかに見えたが、次の瞬間、紙くずが舞うように機体がバラバラになり墜落していったという。

−原因−
事故調査委員会の調査や報道関係の調べで、@自衛隊側の訓練空域が必ずしも明確ではなかったこと、A訓練空域は当日の朝、上官から指示されること、B松島派遣隊は古い航空路図しか持っておらず正確な民間航空路の認識がなかったこと、C教官は、以上のことから民間航路はもう少し離れたところにあると認識し訓練を行っていた、などの事実が浮かび上がってきた。その結果、自衛隊機が無謀な訓練を行った結果、最悪の事態を招いたとの見方が強まった。

一方、自衛隊側は、@全日空機が本来のコースを12kmも逸脱していたこと、A管制官が承認していた24000フィートより超えて28000フィートで衝突していること、などをあげて全日空側に大きな過失があると主張した。コース逸脱に関しては、昭和60年2月の朝日新聞で、全日空機の乗客が8ミリカメラで機外の景色を撮影していたという。この貴重な証拠が法廷に提出されたのは、事故から10年後のことであった。このフィルムには、本来のコースであれば見ることはできない「田沢湖」が写っており、全日空機がコースを外れていた可能性が指摘された。だが、一般的に航空路ではコースから12km離れていたとしても誤差に過ぎないという見方もある。

公判では、全日空側のパイロットは殉職したため、自衛隊機の隅教官とT二曹が業務上過失致死と航空法違反で起訴された。昭和50年3月11日盛岡地裁は、隅教官が見張りを充分にしていなかったことを主な理由として隅教官に禁錮4年、T二曹に禁錮2年8ヶ月の実刑判決が言い渡された。これを不服として自衛隊側は控訴。昭和53年5月9日仙台高裁は、隅教官の控訴棄却、T二曹に無罪を言い渡した。昭和58年9月22日最高裁は、自衛隊機側に「全日空機の操縦者における過失有無にかかわらず(全日空機も見張りが充分でなかったと指摘)、被告(隅太茂津)には見張り義務違反の過失があった」として、禁錮3年執行猶予3年の判決を下した。

結局、双方の見張りが不充分であったとされ、全体の責任は自衛隊がより重いという結論だった。これに対して全日空乗員の遺族側は「死人に口無し」と不服の姿勢を崩していない。また、自衛隊と全日空の法人としての問題は不問とされたことは、恒久的な安全対策を願う遺族の意に反することになった。


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