三島由紀夫事件


−経緯−

昭和45年11月25日、世界的に有名な作家・三島由紀夫は自身で創った民兵組織「盾の会」メンバーの森田必勝ら5人を引き連れて、市ヶ谷にある陸上自衛隊東部方面総監部に侵入し、陸将の益田兼利総監を監禁状態にして立てこもった。これを阻止しようと総監室に入った中村二等陸佐は、三島の刀で左腕を切られて重傷を負うなど8人の自衛官が負傷した。

その後、三島はバルコニーへ出て約1000人の自衛官の前で檄文の垂れ幕、びらをばら撒き「われわれは自衛隊を愛すればこそ憲法を改正するため、自衛隊が決起する事を願ったのに、自衛隊はわれわれの希望を裏切った。諸君は自分を否定する憲法を何故守るのだ」と約10分間演説をした。

自衛官たちは三島に向かって「総監を解放しろ」「垂れ幕を回収しろ」など野次を飛ばした。これを見た三島は、自衛隊の決起は無いと判断、再び総監室に戻り、自身の刀で割腹自決をした。

−盾の会−
盾の会は、左翼革命勢力に対抗するため学生を中心とした民間防衛組織で、昭和43年10月5日に結成された。隊員は、自衛隊に体験入隊し、鍛錬するとともに三島論を研究した。会員は100人を超えたが、三島は生死を共にできる隊員は数人しかいなと嘆いていたという。
三島は、憲法改正が容易に進まないことに苛立ちを覚えていた。このため自衛隊が治安維持のため出動したならば、自衛隊の存在意識が明瞭になるとしてこの影響下、憲法改正につながると見ていた。

ところが、昭和44年1月21日の国際反戦デーにおいて新左翼の挑発的な暴力行為があったのにかかわらず結局、自衛隊の治安維持の活動はなかった。これにより、三島は憲法改正は永遠に無いと深く絶望する。そして最後のカケにでたのが本事件と見ることができる。

−その後−
この事件は、各方面に多大な影響を与えた。まず、海外における新聞、テレビでは日本の軍国主義復活などと紙面を躍らせた。また、国内の右翼団体は「三島の行動こそが右翼活動の進む道である」と刺激された。当の自衛隊は、今日まで三島が希望した決起は起こらなかったが、憲法の解釈を拡大しPKO活動で海外へ自衛隊が進出するまでになっている。
三島由紀夫は純粋に日本を愛し決起をしたのだが、そこに至るまでの本当の過程は明らかにされていない。

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バルコニーで演説する三島 三島が割腹自殺した、総監室の現場


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