3億円事件


−経緯−
昭和43年12月10日午前9時30分頃、東芝府中工場のボーナス3億円(実際には2億9434万1500円)を積んだ日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が、ニセ白バイの警官に現金輸送車ごと盗まれた。日本史上はじまって以来の巨額強奪事件で、3億円は今の貨幣価値でいっても30億円近い金額である。

−捜査難航−
日本信託銀行国分寺支店から東芝府中工場へは道が空いていれば20分前後で行ける距離だ。勿論、安全のため同工場までのルートはいくつかのルートがあり、行員は事前に知らされてはいない。当日の朝、ルートが明らかにされ現金を輸送することになっていた。輸送車は同工場まであとわずかの府中刑務所裏の府中市栄町、通称「学園通り」にさしかかっていた。

そこへ、犯人は相当あせっていたのだろうか、偽造白バイを隠していたカバーを引っ掛けたまま現金輸送車を追いかけ、輸送車の前を塞ぐようにして停車した。現金輸送車の運転手が窓をあけ「どうしたのか」と聞くと「貴方の銀行の支店長宅が爆破された。この輸送車にもダイナマイトが仕掛けられているという連絡があったので調べさせてくれ」と言って行員を輸送車から降ろさせた。

実はこれより以前に支店長宛ての脅迫状が送りつけられていた為、その雰囲気に行員たちは飲まれてしまった。犯人は、輸送車の車体にもぐりこみ爆弾を捜すふりをして、隠し持っていた発煙筒に点火。「爆発するぞ!早く逃げろ」と避難させた直後に輸送車ごと運転し逃走してしまった。これが事件のあらましである。

捜査陣は当初犯人検挙に向けて楽勝ムードがあったという。それは、犯人が残した遺留品が120点もあったからだ。事件現場の偽造白バイと発煙筒、ハンチング、そこから1.3キロ北に離れた国分寺市西元町の武蔵国分寺跡(墓地)で現金輸送車を乗り捨てた第二現場。そして現金輸送車がどのルートで東芝府中工場へ行くのか見張っていた際のグリーンのカローラがあった第三現場。4ヶ月後に長期駐車されていた逃走用の紺のカローラがあった小金井市本町団地の駐車場、この車の中に現金を運ぶジュラルミンの箱3個が発見された第四現場である。
この各現場から犯人の遺留品が多数でてきた。

ところが、これらの遺留品はどれも普通のもので、大量生産時代の障害に突き当たった。各遺留品を手掛かりに捜査しても、何百万という生産量で全国に出回っているとすれば、現実的に犯人に行き着くことは無理であった。が、捜査本部は徹底的に調査を進めていく。圧巻は、偽造白バイ(盗難車)を白に塗装する際に、マスキングのため使用したと思われる数ミリの糸状のものを調べた結果、新聞の切れ端であることが判明。更に何月・何日のどこの新聞かもつきとめて、その新聞を契約している付近の家を片っ端から調べたという。また、ジュラルミンについていた泥を精密検査し、現場から4キロ離れた恋ヶ窪の雑木林の土壌と酷似していた。このためこの付近にアジトがあると見て、徹底的に捜索したが成果はでなかった。

−犯人像−
事件から1年後の昭和44年12月12日、新聞に「3億円事件の重要参考人としてAさん(当時26歳)から事情聴取」というスクープが掲載される。結局このAさんは犯行当日に確実なアリバイ(事件当日は、羽田空港内の会社の入社試験を受けていた)があり白判定。Aさんもこの事件の被害者であった。

その中で当時19歳だったBのことが今でも語り継がれている。Bは立川を根城にする「立川グループ」という非行少年グループのリーダ格で、事件の発生から5日後に、自宅で現職白バイ警官の父親が隠しておいた青酸化合物で自殺したのだ。父親が白バイ警官ということもあり白バイの知識がある。車の窃盗歴がある。地元であるため土地感がある。事件当日のアリバイがはっきりしていない。

生前、仲間に「現金輸送車を襲撃しようぜ」などと言っていたなど、警察でも当初から目を付けていたらしい。ところが、父親が現職警官ということもあり、捜査に気後れがあったことも事実のようだ。また、Bの仲間は皆同様に「自殺をするような奴ではない」と証言した。何故、父親が隠し持っていた青酸化合物で自殺したのか、しかも事件から5日後である。今でも、自殺させてしまったことに捜査陣は悔しがる。

−結果−
容疑者リストにのったのは実に11万人、私生活を犠牲にしてまで捜査した警官延べ17万人という空前の捜査は結局、犯人を検挙できず昭和50年12月10日午前零時に時効が成立した。更に、昭和63年同日、民事の時効を迎え3億円犯人は完全に法的な拘束が無くなった。今犯人はどこで何をしているのだろうか。盗まれた3億円はどこに消えたのだろうか。

地図
3億円強奪・逃走経路
画像 画像
犯人が乗捨てたニセ白バイ 犯人とされたモンタージュ写真


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