五寸釘寅吉事件

-:経緯-
大正13年9月3日、「五寸釘寅吉」こと脱獄王・西川寅吉(当時70歳)は、網走刑務所を出所した。21歳に傷害罪で監獄に入獄してから50年間。ついに監獄人生に終止符が打たれた。そもそも何故ゆえに寅吉は五寸釘寅吉という異名で呼ばれたのか?

-生い立ち-
寅吉は、安政元年(1854年)の幕末期に、三重県多気郡御糸村に農家の四男として出生した。12歳の時に父親が亡くなり、次兄、三兄は幼くして奉公に出たため、寅吉は長男の農業の手伝いをした。だが、長男との折り合いが悪く、嫁を娶った21歳の時に、長男と口論の末暴行。警察に逮捕され懲役2年で度会監獄所に入獄。これが始めての入獄となる。

その後、出所した寅吉に村人は冷たい目を向けたため、自然と農業に身が入らず、ヤクザ仲間と近隣の家に強盗目的で押し入った。未遂で終わったものの、逮捕された寅吉は懲役7年で再び監獄所に舞い戻る。出所後、今度は神奈川県で強盗をはたらき逮捕される。明治15年10月1日、裁判所で予審中、看守の隙を見て脱走。これが最初の脱走となる。

-6回の脱獄と五寸釘寅吉の異名-
偽名を使って故郷の御糸村に戻った寅吉は、地主を呼び出し暴行をはたらく。それは、収監中に妻子が地主に苛められていると知ったためで復讐をするための脱走だった。この犯行後、強盗目的で深夜に松坂市の質屋に忍び込んだところを張り込み中の刑事に発見され逃走。

質屋の2階から飛び降りた寅吉は、地面に五寸釘が刺さった木板を思いっきり突き刺し、激痛の中を木板ごと草履代わりにして2キロ以上先の裏山に逃げ込んだ。その数日後、賭博仲間の家に潜伏していたところを逮捕され監獄へ戻された。

寅吉は強盗未遂と放火未遂、ならびに脱走罪が加算され無期懲役となり三重監獄所に入所。だが、看守の隙を見て再び脱走。間もなく逮捕された寅吉は、北海道空知収監所に送致される。この頃には、脱獄を警戒した収監所では、鉄球の足かせを寅吉の足に繋げて二度と脱走できぬよう厳戒態勢が敷かれた。だが、炭鉱作業中に監獄仲間が看守に暴行。それを見た寅吉は加勢して、その隙に三度目の脱走をした。この脱走の期間は2年にも及んだ。

明治22年1月25日、神奈川県を中心に強盗、窃盗を繰り返した寅吉は横浜警察署の署員によって逮捕された。寅吉は、このままでは死刑は免れないと思い偽名を使った。裁判所も寅吉とは気づかぬまま、初犯として刑を言い渡した。だが、以前脱走した時の担当の刑務官が横浜収監所に転勤してきたことから、寅吉であることが発覚。三度、北海道の監獄所に送致された。

だが、明治24年3月14日、厳戒態勢を敷いていた監獄所を脱走。また逮捕されると、更に重い鉄球を足に繋げられて北海道月形町にある樺戸監獄に入獄。ここでも、看守を思いっきり蹴り飛ばして気絶させ逃走。この時の逃走が、後々まで語られるようになった。

寅吉は、気絶させた看守を尻目に、自分の着ていた囚人服に水を一杯に染込ませ監獄東側の6.5メートルもある塀に向かって全力疾走。塀間際にその囚人服を塀の高いところに叩きつけ、僅かな吸着力を使って塀を一気に乗り越えて脱走した。まさに軽業師。忍者のように塀の向こうに消えていったのだった。

脱走から1年後、新潟で逮捕された寅吉は、北海道の獄舎に戻された。だが、この時を境に、寅吉の脱走はピタッと無くなり、最後は釧路刑務所を出所するころには模範囚だったという。

-その後の寅吉-
出所した寅吉は、「五寸釘寅吉一座」を結成して全国へ巡業した。当初は物珍しさもあって盛況だったが、やがて世間からは飽きられて廃業。晩年、三重県多気郡で息子に面倒を見てもらっていたが昭和16年に眠るように亡くなった。享年87歳だった。

尚、脱獄王としては、白鳥由栄も有名である。


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