関東大震災

-経緯-
大正12年9月1日午前11時58分、相模湾北西部沖を震源とするマグニチュード7.9の巨大な地震が発生した。この地震で被災者は190万人、死者10万5000人、倒壊した家屋約10万戸、焼失した家屋が約22万戸にのぼった。

この地震で被害を大きくしたのは火災による死者であった。東京市の79.4kuの内、40%にあたる34.7kuが焼失した。特に、隅田川を挟んで日本橋から浅草区(現台東区)、本所区(現墨田区)は壊滅状態となった。

-火災発生-
この日、学校は二学期の始業式だった。そろそろ子供達が学校から帰ってくる頃で、多くの家では昼食の準備に取りかかっていた。そこへ、突然ドスンという大音響とともに地面が激しく揺れた。パニックに陥った人々は、自分の身を守るのが精一杯で火を消すどころではなかった。このため、東京市だけでも134ヶ所から出火。多くの家屋は木造であったため、火は瞬く間に燃え移り巨大な火柱を上げた。

人々は、家財道具を持ち出して、宮城前広場(現皇居広場)、日比谷公園、芝公園、上野公園、浅草寺など広い場所を目指して避難した。その中で、特に甚大な被害がでたのが、本所区にある被服廠跡地(現横網町公園)であった。この跡地は2万坪の広大な土地で、元々陸軍の軍服縫製工場であった。が、工場の移転に伴い東京市に土地を払い下げていた。東京市では、学校や公園などを計画していたが、当時は更地のままだった。

この被服廠跡地に、本所区の地元はもとより市内の各地から数万人規模の避難者が押し寄せてきた。午後3時過ぎになると、広大な2万坪の空き地は被災者で身動きがとれない状態になった。更には、四方からの火災による火の粉が飛んできて、避難者が持ち込んできた家財道具(布団やタンスなど)や服に燃え移り瞬く間に大火災となった。これを見て、逃げ惑う避難者は将棋倒しになり圧死者が出始めた。

火の勢いは更に強さを増して、ついに火炎旋風が発生した。火の竜巻は数百メートルも上昇し、人や家財道具、付近の家屋の屋根などいたるものを上空に巻き上げた。被服廠跡を九死に一生を得て脱出できた者は、猛烈な熱に耐え切れず、隅田川に飛び込んだ。だが、すでに川は熱湯になっており次々に火傷を負いながら死んでいった。この被服廠跡地では、約4万人の避難者が死亡。身元どころか男女の区別もできないほど炭化した死体が山のように積まれて亡くなっていた。

関東大震災の被害の特徴は、地震そのものによる死亡や建物の崩壊よりも、その後の火災による2次災害の方が圧倒的に多かった(東京市の場合、圧死は3546人:焼死66521人)。

-戒厳令と朝鮮人デマ虐殺-
翌日の2日、政府、軍部は東京市内外に戒厳令を発令(翌3日は神奈川県下など範囲を拡大)し治安維持に努めると同時に炊き出しなど各地で救援活動を本格化。そんな中、恐怖と不安の一夜を過ごした避難者達に流言飛語が広がっていった。

「朝鮮人が暴動を起こした」、「朝鮮人達が、井戸に毒を入れて東京市を壊滅しようと企んでいる」、「金員の強奪、強姦をはたらいている」、「トラックに乗って、神奈川方面から丸子橋を渡ってやって来る」などと伝聞が広がると、血気盛んな青年達は次々と自警団を組織した。

当初、戒厳令本部、軍部、警察も事の真相をはっきりと掴んでいなかった。このため、自警団に対してはある程度裁量を与えていた節がある。だが、震災から2日後になると、朝鮮人が暴動を起こした事実は無くデマであると判明した。そこで軍部は、1.朝鮮人による暴動はデマである、2.流言飛語を広めると罰する、などの内容を記載したビラを配り始めたが、自警団の被害妄想的な興奮と熱気から冷ますにい至らなかった。

自警団は、町内の境界線や川に架かる橋端で通行人に片っ端から尋問した。例えば、朝鮮語では語頭に濁音が無いことから、「ガギグゲゴ」と言わせたり、国家を斉唱させたりして日本人か朝鮮人かの判別をした。中には、地方から上京した訛りのある日本人を朝鮮人と勘違いして殺害した例も多くあった。特に、福田村事件は悲惨で子供を含めて9人が虐殺された。

エスカレートする自警団に対して、警察や軍部はむしろ朝鮮人達を保護したことも見逃せない。横浜市の鶴見警察署の大川署長は、朝鮮人300人(一部、中国人など)を保護。これを奪回して殺害しようとした自警団1000人が警察署を取り囲んだ。だが、大川署長は「朝鮮人は絶対に渡さない。(もし力ずくでもと言うのなら)この大川を殺してから連れて行け」と体を張って保護した。その他、陸・海軍も軍の施設で保護したりした。

かくして自警団が完全に解散したのが10月頃で、その間に朝鮮人は約2600人余りが殺害された(韓国側の調査では6000人とも言われている)。また、朝鮮人と間違われた日本人60人余りも殺害された。

-福田事件-
震災から5日目の9月6日、千葉県東葛飾郡福田村(現野田市)の香取神社で、香川県から来た薬売りの一行15人が休憩をとっていた。その一行の団長が、利根川を渡る船賃の交渉をしている時に事件は発生した。香川訛りの言葉が、始めて聞く自警団にとって怪しいということになった。「お前達は朝鮮人ではないのか」と問い詰められ、騒ぎになった。半鐘が鳴らされ自警団が集まってきた。

必死に日本人だと説明する一行に、自警団は問答無用と二十歳代の夫婦2組とその子供3人(2歳から6歳)、24歳と18歳の青年、計9名が日本刀や竹やりなどで虐殺された。その直後、警察が現場に到着して残りの6名の命は助かった。この自警団は後日逮捕されるが結局恩赦などで釈放され、その内の一人は村長にまでなっている。

-復興へ-
自警団が解散される頃には、国内にも平穏の気配が感じられてきた。政府は、山本権兵衛首相を総裁として帝都復興審議会を創設。道路拡張、区画整理などインフラ整備が急速に進み始めた。復興事業の代表的な建物には、お茶の水の聖橋、同潤会アパート、九段下ビル、復興公園など復興のシンボルとして建造された。
この関東大震災から88年後が東日本大震災である。

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