朝日新聞の終戦


-経緯-
昭和20年8月15日、日本は連合国の所謂ポツダム宣言を受諾。ここに、昭和16年12月8日の真珠湾奇襲攻撃から始まった太平洋戦争に幕が下りた。この戦争で、日本人は一般市民を含めて約320万人という未曾有の戦死者をだした。この悲惨な戦争に国民を駆り立てたのは何だったのか。軍部を中心に政府、議会という国家権力の指導のもと戦争に向かっていったのは事実であるが、一方で国民に公平中立であると思われていたマスメディアとりわけて新聞社の罪も大きい。終戦前日までの記事は一貫して積極的に戦争を煽っていた。戦争を美化し、アジアの開放を訴えて国民に鼓舞する論調は、朝日新聞に限らず殆どの新聞社も同様の路線であった。

朝日新聞の8月15日は、どのようなものだったのか。

・・・その日午後、村山社長出席のもとに編集局部長会議が開かれた。私はこう述べた。「仕事は平常通りやっていこう。何も動揺することはない。今まで一億一心とか、一億団結とか、玉砕とか醜敵撃滅とかいう最大級の言葉を使って読者に訴えてきたのに、今後はガラリと態度を変えなければならない。これはしかたのないことだが、だからといって、昨日の醜敵が今日の救世主に変わったような、歯の浮くような表現もとられまい。マッカーサーも新聞に関するかぎり、日本が占領地でやっていたようなバカげたことはやらぬと僕は思う。ボツボツいこうじゃないか」。

村山社長も「それがよかろうな」といった。長谷部政治部長も「180度転換した態度をとるべきだという意見もあるが、そう一ぺんに現金な態度の転換は良心が許さぬし、また読者にも相済まぬような気持ちがするから、あまり不自然な敗戦迎合の態度はやめたい」と私の意見と一致した。


これは、昭和18年11月までニューヨーク支局長で、帰国後朝日新聞編集局長だった細川隆元氏が戦後に記した「実録朝日新聞」からの抜粋である(その後、細川氏は衆議院の代議士を経て、テレビの「時事放談」などレギュラー出演するなど政治評論家として活躍した)。以下に示すように、国民を戦争に駆り立てる報道を展開しながら、敗戦になると「まあ、ボツボツいこうじゃないか」という意見で一致したという。彼たちの罪の意識は微塵も感じられない。
では、戦時中の朝日新聞の記事や活動は如何なものであったのか。

-戦時中(一部、現代用語に編集)-
昭和16年12月19日夕刊
【社説/帝国の対米英宣戦】
帝国は日米の平和の道を求めるため、最後まで条理を尽くして米国の反省を求めたにもかかわらず、米国はわが公平な主張に耳をそむけ・・・(中略)・・・一億同胞は一身一命を捧げて決死報国(死を覚悟して国に貢献する)の大儀に殉じなければならない。敵は豊富な物資を有し、無法な世界をほしいままに制覇する意志を抱いている。したがって、これを撃破し帝国の自存を確立し、東アジアの新秩序を建設するために、戦争はいかに長期にわたろうとも、国民は困難に耐えて、この天の試練を突破しなければならない。

昭和16年12月11日朝刊/ブエノスアイレス特電
【ル大統領泣言】
ルーズベルト大統領は九日午後十時四分よりホワイトハウスから炉辺談話を放送し・・・戦況については゛バット・ニュース゛と正直に日本の勝利を認めた・・・戦況不利の事実を認め、次いでこの戦争は長期戦と化し、しかも相当苦難多き戦争になるだろうと早くも、かねてから米国が対日戦略としていた長期作戦の片鱗を暴露した。
注:朝日新聞ニューヨーク支局は、開戦前に南米のブエノスアイレスに支局を移動していた。

昭和17年2月19日夕刊
【゛この万歳゛全世界も聞け/歴史の朝・宮城(皇居)前の歓喜】
宮中の常盤木もきょうはひときわ早春清明の陽に映えている。世紀の大勝(シンガポール陥落)をみたわれら一億の声をそろえて、この二重橋前に歓喜する。ああ何たる栄光の日ぞ。
馬場先門、和田倉、坂下の三つの門から旗の波、人の波、鼓笛の響きを揚げて隊列整然、この宮城前広場に集い来る国民の群の、ああ何たる壮観ぞ・・・(中略)・・・かかる日の感動がまたとあっただろうか・・・(中略)・・・「天皇陛下万歳」と両腕たかく奉唱すれば、何故とも知られぬ誇りに心は熱し、宮中の木々も白壁も、思わずにじむ涙に溶ける思いがする・・・。


昭和17年6月11日朝刊
【社説/太平洋をおおう大成果】
東太平洋および北太平洋の全海域にわたって作戦中のわが無敵海軍部隊は、去る五日、洋心のミッドウェー島を猛撃するとともに、同方面に増援中の米国艦隊を捕捉して痛撃を加え・・・(中略)・・・米国航空母艦エンタープライズ型およびホーネット型各一隻を撃沈し、飛行機120機を撃墜したほか、軍事施設に重大な損害を与え・・・(中略)・・・この作戦の結果により、米国の反抗の企図は、事実上、一応ここに挫折するところとなったのである。これを思うにつけても、第一線将兵の善謀勇戦に対する銃後の感謝はいよいよ新たなるを加えるとともに、惜しくも散華した幾多の忠霊に対する哀悼の念は尽きるところを知らないのである・・・(中略)・・・今こそ吾人は「勝っておごらず、常の備えを忘るべからず」との古訓をもって自らの心を鞭うたねばならないのである。
注:ミッドウェー海戦は、日本海軍の事実上の完敗であったのにもかかわらず、米国の損害をことさら過大に、日本側を小さく報道。大敗北であったのに、勝って兜の緒を締めよと社説。


昭和17年12月6日朝刊
【陣頭を駆ける我らの首相東条さん】
戦う日本の首相として、常に我らと共にあり、銃後国民にその名、その姿すでに親しい東条さん・・・(中略)・・・路上で目ざとくも見つけた市民たちは「あ、東条さんだ!」と親しみの会釈で車上の姿を追う。それに対して、一々親しく挙手の礼を返す我らが東条さんである。大東亜戦争第二年へ首相として、また陸相として東奔西走。席あたたまる時もない激務の連日に心から感謝と声援をおくろう。


昭和18年10月21日夕刊
【たぎる滅敵の血潮/きょう、出陣学徒壮行大会】
21日朝、秋深む明治神宮外苑競技場、全日本の学徒が多年武技を練り、技を競ったこの聖域に゛壮行の祭典゛は世紀の感激をもって挙行された・・・(中略)・・・外苑競技場に湧き上がった若人の感激は恐らくは、当競技場の歴史始まって以来の高さと強さをもって奔騰したのであった。まこと国を挙げて敵を撃つ決戦の秋(とき)、大君に召されて戦いの庭に出で征つ若人の力と意気はここに結集し、送る国民の赤誠、またここに万こく(はかりしれない)の涙となって奔ったったのである。

昭和19年8月19日朝刊
【社説/こう敵、誓って撃つ】
(前略)しかしながら、戦争の全局から大観するならば、一局部における一時の不利な環境は、歴史が示しているようにいかなる戦勝国といえども勝利への道程において、一再(一、二度)ならず直面するところである・・・(中略)・・・われわれの信念はこれによっていささかも揺らぐものではなく、われわれの戦意は断じて沮喪(くじける)するものではない。むしろ却って、敵がいの士気は一億のすべての心を鞭打ち、神州護持の凛烈たる精神は、熱火の試練を経れば経るほど強く、清らかに磨き澄まされるばかりである。雄健にして高邁なる精神を持つ民族が外敵と戦って亡びたためしはいまだかつてないのである・・・(中略)・・・今こそ大東亜の諸民族とともに欧州の盟邦と相携えて敵の不逞なる反攻を徹底的に撃砕すべしとする首相の決意は、まさにわれわれ国民のすべての決意にほかならぬ。
注:サンパン陥落で敗れた検証は完全に無視。精神論で国民を鼓舞する社説

昭和19年10月28日朝刊
【社説/いざ、決戦へ】
フィリピン沖海戦の総合戦果およびレイテ湾攻撃の新戦果が発表され、今次の決戦におけるわが勝利がいかに圧倒的であり、かつ決定的であったかを深く痛感せざるを得ない。今月中旬から展開された台湾沖航空戦、フィリピン沖海戦、レイテ湾強襲を連ねる一連の決戦において、敵太平洋艦隊は、主戦艦たる航空母艦だけでも撃沈19隻、撃破17隻という痛烈な損害をこうむったのである・・・(中略)・・・米国戦争指導者の得意とする狡智な詭弁をもってしても到底ごまかし得ない厳然たる事実であって、その焦燥困惑はまさに察するに足る・・・(中略)・・・われわれは、この戦勝の期に乗じ、あくまで究極の勝利まで、このまま押し切る心構えを固めねばならぬのである。
注:戦中最大のデマ報道であった、レイテ沖海戦、台湾沖航空戦の大勝利を受けての社説。実際は、日本軍の大敗戦だった。

昭和20年3月19日朝刊
【社説/畏し・天皇陛下戦災地を御巡幸・御仁慈の大御心、一億滅敵の誓い新た】
(前略)朝に夕に一億国民ひとしく忠誠の心いまだ足らざるを嘆き悲しむ。今はただ伏して不忠を詫び奉り、立ってはしこの御盾となり、皇国三千年の歴史を太しく護り抜かんことを誓うのみである。ああしかも、この不忠の民を不忠とも思召されず、民草(国民)憐れと思召し、垂れさす給う大御心のかしこさよ。
注:東京大空襲の焼け跡を視察した天皇陛下に対して、空襲を招いたのは国民のいたらなさのせいで、今はただ天皇陛下にお詫びし、天皇の盾となるしかない。しかしそんな国民を天皇はおそれ多いことに哀れと思っていてくれると社説。

昭和20年6月11日朝刊
【国民抗戦必携】
本土侵攻の敵が圧倒的な物量でやって来ることは十分に覚悟しなければならない・・・(中略)・・・一歩たりても退いてはならない・・・(中略)・・・傷病者は原則として後送されない。負傷者、戦死者に対する戦友道は敵を撃滅するにある。以下は、大本営陸軍部刊行の「」国民抗戦必携」による解説である。
゛狙撃゛
一発の弾なりとも無駄弾であってはならない。一発よく5人を倒し10人を屠る心構えが必要だ(以下、射撃法解説)。
゛白兵戦と格闘゛
ナタ、出刃包丁、トビに至るまで白兵戦兵器として用いる。刀や槍は、背の高い敵兵の腹部目がけてぐさりと突き刺したほうが効果がある・・・(中略)・・・格闘になったら、みぞおちを突くか睾丸を蹴る・・・。

昭和20年6月14日朝刊
【敵来らば「一億特攻」で追落そう】
「一億特攻」の言葉が叫ばれて既に久しい。だがこの言葉の叫び続けられねばならぬところ、国民の中にはまだ特攻精神に徹しきっていないものがあるのではないか。しかし今ほど一億国民すべてに特攻精神が求められている・・・(中略)・・・男も女も、老人も子供も、一たび敵が本土に上陸すれば、武器となしえるものすべてを武器とし、敵兵を突き刺さねばならないのである。

昭和20年8月15日朝刊
【玉砂利握りしめつつ宮城を拝しただ涙】
(前略)我らは戦った、戦い闘ってしかも忠誠なお足らず、遂に聖断を仰いで干戈(かんか/武器)をおさめねばならなくなったのである・・・(中略)・・・ああ、そこにも玉砂利に額づいて、大君に不忠をお詫び申し上げる民草の姿があった。「天皇陛下に申し訳ありません・・・」それだけ叫んで声がでなかった。
注:敗戦の原因は国民の努力不足にあり、天皇陛下に申し訳ないという記者の皇居前の取材記事を掲載。

このように、朝日新聞は大本営の発表を淡々と伝えるだけではなく、自ら精神論を国民に訴えあるいは鼓舞し戦争を積極的に美化し扇動してきた。また、戦争遂行にあたり社長以下役員、社員が軍に献金し、読者に対しても幅広く軍への献金キャンペーンを行った。更には、例えば、「欲しがりません勝つまでは」という標語は、同社のキャンペーンに応募した小学生の作品。また、本土空襲で猛威をふるったB29のあだ名を募集したり(ちなみに、゛ビー公゛が入選)、国際連盟を脱退した際、松岡洋右代表を褒めたたえ、「連盟よさらば」という歌まで作ったというから呆れるばかり。(ただ、戦前、戦中の論調は朝日新聞に限ったことではなく読売、毎日などの大新聞や地方新聞も大同小異であったことも事実であるが)。

-戦後の朝日-
終戦を境に、朝日新聞の論調は180度転向した。まず、昭和20年8月23日に「自らを罪する弁」と題して社説を掲載。続いて同年11月7日に「国民と共に立たん。自ら罪するの弁」と題して声明文を載せた。

「支那事変勃発以来、大東亜戦争終結にいたるまで、朝日新聞の果たしたる重要なる役割にかんがみ、我等ここに責任を国民の前に明らかにするとともに、新たなる機構と陣容とをもって、新日本建設に全力を傾倒せんことを期するものである。今回、村山社長、上野取締役会長以下全重役、および編集総長、同局長、論説両主幹が総辞職するに至ったのは開戦より戦時中を通じ、幾多の制約があったとはいへ、真実の報道、厳正なる批判の重責を十分に果たし得ず、またこの制約打破に微力、ついに敗戦にいたり国民をして事態の進展に無知なるまま今日の窮境に陥らしめた罪を天下に謝せんがためである」。

戦前、戦中あれだけ国民を煽っておきながら、これが謝罪声明なのだろうか。「幾多の制約があった」と弁解しているが、戦前・戦中の報道は積極的に戦争を美化し、一大キャンペーンを繰り広げていたのである。

「厳正なる批判の重責を十分に果たし得ず」ではなく、「戦争推進のため軍部と共に十分に役割を果たした」のではないのか。更に、退任した会長、社長は昭和26年に復帰したことも見逃せない。この時点で、報道機関として過去の検証とそれに基づく反省と是正処置を徹底に行っていれば、戦後の朝日新聞の軸足はしっかりとしたものになっていたのではないか。しかし、形だけの反省のためか、戦後は一転して極端な左展開を見せていった。

-戦後のミスリード-
昭和30年代、朝日新聞は在日朝鮮人の北朝鮮帰国キャンペーンを大々的に行った。現地特派員のレポートは、北朝鮮政府の市政を絶賛。゛地上の楽園゛であることをことさら強調し、医療、教育も無料で就職率は完全であると報道。これを読んだ在日朝鮮人が夢を求めて北朝鮮に帰国した(日本人妻を含めて約10万人)。その後の、彼たちの地獄の苦しみは周知の事実である。この特派員は、何を見て゛地上の楽園゛と思ったのだろうか?

また、昭和41年頃に始まった中国の文化大革命では、「・・・いわば、゛道徳国家゛ともいうべきを目指すとともに、中ソ論争の課題に答えようとする、世紀に挑む実験という意欲も感じられなくは無い・・・」と、非人道的で残虐極まりない文化大革命を肯定し評価した。この中国、北朝鮮寄り報道は現在へとつながっている。

昭和50年4月19日の夕刊で、「カンボジアの極左武装勢力クメール・ルージュ(ポルポト派)が首都プノンペンを制圧。武力開放のわりには流血の跡がほとんど見られなかった・・・(中略)・・・敵を遇するうえで、きわめてアジア的な優しさにあふれている」と特派員のレポートを掲載した。

実際には、全ての市民は(入院している重傷者も例外ではなく)地方の集団農場へ強制移住させ、少しでも文化的な香りがする市民(教師、医師など)は再教育の名のもと銃殺された。更には、手が綺麗(労働階級ではない)、メガネをかけている(インテリ階層)という理由だけで処刑された事例もあった。

クメール・ルージュは、一体どの位の同胞(国民)を殺害したのか。各国政府や団体により様々な検証をしているが、凡そ100万人前後を処刑したと言われている。朝日新聞の特派員は、現地で何を見ていたのだろうか?

一々問題を提起していられないが、平成11年8月の社説では「日朝国交正常化交渉には、日本人拉致疑惑をはじめ゛障害゛がいくつもある」と掲載。拉致被害者の家族が、「我々は障害なのか」と激怒。一体、朝日新聞は何を言いたかったのだろうか?

このように、戦前・戦中は極端な右シフトをしていたかと思えば、戦後は一転して左へシフト。時勢によって軸足を変えているように見える。一方、就職活動の試験問題では朝日新聞の社説からの設問が多いと言われ日本を代表する報道機関として今日も君臨している。


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