吉展ちゃん誘拐事件


-経緯−
昭和38年3月31日の夕方、東京都台東区の工務店経営・村越さんの長男で、当時4歳の吉展ちゃんが自宅前の入谷南公園で行方不明になった。4月2日になって犯人から、身代金50万円を要求する電話があった。8回目の電話があったのは、4月7日の午前1時で「近くの品川自動車前まで身代金を持って来い」との要求があった。

警視庁捜査一課のS警部補らは、現場に警官を配置させるまで身代金を持って行くことを遅らせようとしたが、手違いで吉展ちゃんの母親が乗ったトラックが先に出発してしまった。S警部補らが現場に到着したのは、犯人が50万円を奪って逃げてから3分後であった。結果として身代金を積んだトラックの出発を3分間遅らせてれば、現場で犯人を逮捕できたわけで、警視庁の大きなミスに非難が集中した。

−捜査−
犯人を取り逃がした警視庁は、それから二週間後の4月25日、録音された犯人の脅迫電話の声をテレビ・ラジオで公開した。反響は大きく、さまざまな情報が寄せられたが、その日の午後、愛宕署を訪ねてきた男から「自分の兄の声に似ている」との情報があった。それによると、東北なまりで「まつがいねえよ−まちがいないよ」の言方・声の質がそっくりだと言う。その兄とは小原保(当時32歳))で福島県石川郡石川町出身。貧農の11人兄弟の5男として生まれ時計職人であった。さっそく小原を取り調べることになったが犯行当日のアリバイがあることなどから結局「シロ」とされた。

−迷宮入りか−
事件発生から2年が経ち、いよいよ捜査が困難な状況にあった。警視庁はここで、捜査人員を刷新し新たに「落としの八兵衛」こと平塚八兵衛ら精鋭18名で初心に戻って再捜査を開始した。昭和40年5月のことである。

平塚は、小原の供述調書を詳細に徹底的に洗い直し、当時、多額の金を持っていたことに不審を抱く。そこで、昭和38年3月31日を含む4月3日まで郷里の福島に居たとする小原証言は真実なのか(4月2日は福島県の地元で、小原を見たとの証言がありアリバイ崩しができないでいた)、平塚は福島県へ出向き徹底的に洗い直した。その結果、小原を見たとする証言は、実は3月28日であったことが判明。犯行当日のアリバイが無いことを、ついに突き止めた。

別の窃盗で前橋刑務所に服役していた小原に平塚は新事実をぶつけ自供を迫った。だが、小原は‘のらりくらり‘と話すだけで進展は見られなかった。過去二度の取調べで自信がある小原は「取り調べ期間の10日間を乗り切れば」と思っていた。

−日暮里大火災の失言−
そんな小原に対して平塚は「お前のオフクロさんは俺に土下座して゛保を宜しくお願いします゛と言ったんだ。判るか。てめえが悪党だってことを懺悔したんだ」と小原の前で平塚が土下座して再現した。それに対して小原は「そんな悪党呼ばわりしないでくださいよ。私だって親類のボヤを消し止めて誉められたことがあるんですから」と言った。さらに「だけど日暮里の大火災になったら手がつけられませんよ」と。

平塚「へ〜、お前日暮里の大火災を見たんか」
小原「ええ、山手線の中で見ましたよ」
(注:この日暮里大火災は昭和38年4月2日の午後2時頃から深夜にかけて発生した大規模火災であった。平塚も現場に駆けつけている)

平塚「お前、4月2日は郷里の福島にいたとアリバイを主張していたよな。そのお前が何で山手線で火災を見ることができるんだ」。これで小原は完全に落ちた。遂に7月3日午後10時過ぎ小原は犯行を認める自供をした。

その後の自供で吉展ちゃんは誘拐直後、絞殺され南千住の墓地に埋められていたことが判明した。と言うことは、母親が吉展ちゃんの無事を祈って身代金を持参した日は勿論のこと、それ以前に殺害しておいて平然と身代金要求の電話をかけていたことになる。その後、小原は昭和42年10月13日に死刑判決を受け昭和46年12月23日に執行された。


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