アナタハン島の女王事件


−経緯−
昭和26年7月6日、南太平にあるマリアナ諸島の小島゛アナタハン島゛から比嘉和子さん(当時28歳)と男性19人が日本に帰国した。この当時、中国やソ連(現ロシア)、南太平洋など戦地から復員兵や民間人の帰国が相次いだ。このアナタハン島からの帰還もごく普通の復員と見られていたが、後日アナタハン島で起こった悲劇が大きな話題となった。

和子さんの証言によると、当時のアナタハン島には男性が32人いたのだという。ところが、和子さんをめぐる争いが起きて結局13人が死亡し生還できたのは19人だったのだという。太平洋戦争末期の南洋のアナタハン島で何が起きたのか。

−奇妙な生活−
アナタハン島はサイパン島から約100km離れた全長約9km、横幅約4kmの小さな孤島である。このアナタハン島には原住民約70人と日本人でヤシ農園経営のA氏とその部下B氏の妻・比嘉和子さんの2人が暮らしていた(B氏は、妹を連れ戻すためサリガン島に出かけたまま消息が不明になっていた)。

昭和19年6月12日、海軍の徴用船数隻が米軍機から攻撃を受けて沈没した。生き残った乗組員31人は、孤島のアナタハン島を目指して泳ぎだした。A氏と和子さんは、アナタハン島にたどり着いた31人を介抱するとともに食料を与えた。この日からA氏を含めて32人の男と1人の女の奇妙な生活が始まった。

日本の敗戦が濃厚になった翌年の昭和20年に入って70人の原住民が島から逃げ出した。アナタハン島は日本人だけとなった。この頃、島の統制を図るためA氏と和子さんは夫婦を装って離れたところで生活していた。だが、いつの間にか「あの2人は夫婦ではない」ということが発覚し男達の目付きが途端に変わった。

ある日、A氏と和子さんは密林にB29爆撃機の墜落した残骸を発見した。缶詰などの食料の他、パラシュートは服に、燃料タンクは鍋などに応用して生活道具にした。これを聞きつけた男達が更に残骸を物色するとピストルと実弾を発見。C男やD男はピストルを修理して所持した。またE男は機体のジュラルミンからナイフを作った。

昭和21年、最初の殺人が起きた。ピストルを所持していたCとDが仲間割れしてCがDを射殺した。その後、Cは崖から転落して死亡するという不可解な事件が発生。間もなく、A氏も食中毒で死亡。次にピストルを所持したEは和子さんと一緒に生活するようになった。

アナタハン島では、和子さんを巡って次々と死亡が相次いだ。この度に、男達は「会議」で和子さんの次の夫を決めることにしていた。だが、最初32人いた男達は昭和26年になると19人になっていた。そこで、島の統制がとれないと危惧した男達は「和子を殺すしかない」と結論づけた。

これを察知した和子さんは、密林に逃げ込み潜伏した。潜伏から33日後、一隻の船が島に近づいてきた。船は小笠原の漁船だった。救助された和子さんの証言からアナタハン島に19人の男達が生存していることを知った米軍は引揚船を派遣した。

アナタハン島の男達は、以前から米軍機が空から撒いていた゛終戦ビラ゛を信じなかった。だが、今回は和子さんの証言を元に身元を割り出し、彼らの実名が記載されたビラや終戦後の天皇陛下とマッカーサー元帥の会談した写真(本サイトの表紙掲載参照)を見て終戦を信じた。

−帰還−
昭和26年6月30日、19人の男達は米軍が差し向けたボートで7年間暮らしたアナタハン島をあとにした。同年7月6日に和子さんと19人の男達が日本に帰国した。当然のことながら報道機関はアナタハン島での生活を問いただしたが男達は押し黙ったままだった。

一方、和子さんは、ありのままを証言したため世論は驚愕し時には面白おかしく伝えられた。男達の中には、和子さんが一部の殺人を示唆し幇助したと告発した者もいたが、極限状態で生延びるために必要な防衛だったと同情の声も高まった。

昭和28年に「アナタハン島の真相はこれだ」が上映された。後、映画監督の巨匠ジョゼフ・スタンバークが「アナタハン」を制作し絶賛を得た。和子さんは、その後劇場の踊り子や料亭の仲居などを経て故郷の沖縄で再婚したが52歳で病死した。

この映画、日本ではまったくウケなかったが、海外では好評だったという

ホーム

inserted by FC2 system