小笠原事件

注)猟奇的な内容が含まれ、気分を害することもあります。不要の場合は読まないで下さい。


− 経緯−
昭和20年2月23日から25日にかけて、小笠原諸島の父島に配備されていた陸海軍の混成団の一部将校らが米軍の捕虜を殺害して人食していたことが戦後の東京裁判BC級の公判で明らかになった。

小笠原諸島は東京市(現在東京都)に属し、南に約200キロにある島で父島を中心に大小の島からなる。当時、東京市の防衛の要であった硫黄島と東京市の中間にあり、軍需物資を中継する重要な島だった。このため、大本営も従来の父島要塞司令部を改編し陸軍は混成第一旅団(5個大隊を基幹)など約9000人、海軍は通信隊など6000人を再配備した。

米軍の機動部隊は、前年の昭和19年7月にサイパン島を攻略し日本守備隊が玉砕。このサイパンを最前線基地として連日、東京への空爆を行った。大本営は米軍の次の目標は硫黄島とみて、父島に約15000人からなる部隊を配置したのだった。

同年8月31日から9月2日にかけて、いよいよ父島に対する空爆が始まった。米空母からアベンジャー爆撃機が次々に父島に向かって出撃していった。一方、父島守備隊は高射砲や機関砲で応戦し5機の米軍機を撃ち落した。この内の1機が後の第41代米国大統領となるジョージ・ブッシュ中尉だった。ブッシュは、からくもコックピットから脱出してパラシュートで離脱。その後、味方の潜水艦に救助されたが、同乗していた2人の乗組み員は行方不明となった。

−終戦後の発覚−
昭和20年8月15日終戦。9月2日に父島に米艦が到着し、立花陸軍中将を正使、森海軍中将を副使として降状手続きを行った。この時、米軍側は開口一番、「パラシュートで脱出した米軍パイロットは何名いたか。その後、どうなっているか知りたい」との質問に日本軍側は、「防空壕で全員爆死した」と回答。これに対して米軍側は露骨に不機嫌な態度になった。

その後、日本兵の復員は順調に進んだが、何故か的場陸軍少佐の大隊だけは復員が許可されなかった。この時、米軍側は的場大隊以外の部隊から様々な情報を収集していた。証拠固めができた昭和21年2月になって米軍側は、「捕虜になった米軍パイロット達は、残虐行為の末に殺害され人食された。この事件の主犯は陸軍では立花中将と的場少佐、海軍では、森中将と吉井大佐である」としてグアムの軍事裁判に起訴した。立花ら4人は大筋を認めて、小笠原事件に関与したとする軍人ら25人が逮捕された。

−カニバリズム−
一体、どのような経緯で捕虜の人食に至ったのか。その後のBC級裁判で明らかにされた。

昭和20年3月に前任の師団長が自決。その後、副官の立場にあった立花と森が中将に昇格。全体の指揮権は立花が握ることになった。立花中将の副官的存在が的場少佐であった。的場は、気が荒く酒乱の傾向があり、気に入らないことがあると部下を半殺しの暴行を加えて周囲を恐れさせていた。実際に柔道、剣道など合わせて10段以上の腕前と大きな体躯は周りを恐れさすには十分であった。

さて、ここで陸軍と海軍の高級将校達の酒盛りが連日行われた。終戦末期の物不足の中、貴重品である酒を連日酌み交わした。だが、゛つまみ゛が無い。そこで、立花らは米軍捕虜の肉を食べて戦意高揚を図ろうと軍医に捕虜の解体を命じた。針金で大木に縛りつけた米軍捕虜に立花が、「日本刀の凄みを披露する絶好の機会じゃ」と言って、試し切りの希望者を募って殺害。その後、遺体を解体させて宴会の゛つまみ゛にした。後の日本兵の証言によると、米兵の手足の肉や内臓を立花が食べると、「これは美味い。お代わりだ」とはしゃいでいたという。

結局、8人の米軍捕虜を殺害し人食したこの行為で、立花、的場、吉井ら5人が絞首刑となった(森は終身刑だったが、後のオランダ軍の裁判で死刑)。吉井は軍事裁判で、「無差別爆撃する米空軍が悪い。パイロットは処刑されて当然。人肉は戦意高揚のため食した」と供述。更に、「日本軍の戦陣訓である、゛生きて陵辱の辱めを受けず゛・・・という教えがあり、捕虜に対する行為は何をおいても許される」と主張した。

ジョージブッシュは、昭和天皇の崩御で「大喪の礼」に参列した後、「初めて日本人を許す気になった」と語ったという。それほどまでに、ブッシュはこの事件を「戦時中に経験した最悪の時」として自伝に書き込んでいる。もしあの時、ブッシュが米潜水艦に救助されていなかったら、米国大統領になっていなかった可能性が大きい。何故なら日本軍に食べられていただろうから。


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