小野田少尉投降事件


−経緯−
昭和49年3月9日、フィリピン共和国のルバング島のジャングルで陸軍少尉・小野田寛郎は上官の元陸軍少佐・谷口義美から任務解除命令を受けて、長い戦いに終止符を打った。実に終戦から29年を経ていた。

小野田少尉は、陸軍中野学校を卒業後、中国本土で防諜・工作を主任務として活動、その後フィリピンへ転属した。たが、昭和18年頃になると日本の戦況は悪化の一途をたどり、フィリピン攻防戦では殆どの部隊が全滅もしくは玉砕するに至った。この混乱の中、小野田は上官から「引き続き、敵側の状況を調査し徹底抗戦を継続するとこ」と命令された。

昭和20年8月15日、日本の無条件降伏により終戦。アメリカ軍は、軍用機を使って空から、「戦争が終結したこと、武装放棄すること、身の安全を保証すること」などを記載したチラシをばら撒いて投降を促した。一方、小野田少尉は部下である島田伍長、小塚上等兵、赤津一等兵3人とジャングルに潜伏し、「このビラは敵側の謀略である」と無視して戦闘を継続した。

小野田少尉は日本の無条件降伏は信じていなかった。「万一、日本本土が米軍の傀儡(かいらい)政権ができたとしても、日本政府は満州に移って体制を整えるはずた。その時まで、なんとしても我々は徹底抗戦するのみである」と固く信じていた。

徹底抗戦と言っても武器、弾薬は乏しく、食料も尽きていた。そこで、地元民の家畜を奪ったり米軍基地に潜入して食料を奪取したが、発見されたため銃撃戦になったこともしばしばあった。昭和47年10月19日には、フィリピン国家警察とジャングルで遭遇。銃撃戦となり、小塚上等兵が戦死した。実に戦後27年を経た最後の゛戦死者゛だった(島田伍長は既に戦死、もう一人の赤津一等兵は離脱して投降していた)。

−29年後の命令解除−
ジャングルに日本兵が潜んでいるという噂は絶えなかった。そこで厚生省も何度か現地に担当者を派遣したが小野田少尉と遭遇することはできなかった。
昭和49年2月になって、冒険家の鈴木紀夫がジャングルの奥深く密林地帯へと入っていった。そして、ついに小野田少尉と遭遇した。最初は、敵側のスパイと警戒した小野田少尉であったが、話しているうちに心を許し、胸の内を吐露した。やがて、鈴木は小野田少尉から、「上官の命令があれば山を降りる」との言質をとって日本に戻った。

鈴木は帰国後、この事実を各関係者に報告した。そして翌月の3月9日には、当時の上官であった谷口元少佐や厚生省の担当者と供に小野田が待つジャングルへと再び入っていった。日没になって、密林から小野田少尉が出てきて29年振りに上官である谷口元少佐と再開した。

谷口元少佐は、「命令を下達」すると前置きしながら、山下泰文大将名(マレーの虎といわれ、戦犯として処刑)の「尚武集団作戦命令」を朗読。続いて「参謀部別班命令」を口達して小野田少尉の任務を解いた。

大命ニ依リ尚武集団ハスヘテノ作戦行動ヲ解除サル
参謀部別班ハ尚武作命甲第2003号ニ依リ全任ヲ解除サル
参謀部別班所属ノ各部隊及ヒ関係者は直ニ戦闘及ヒ工作ヲ停止シ夫々最寄の上級指揮官ノ指揮下ニ入ルヘシ。巳ムヲ得サル場合ハ直接米軍又ハ比軍ト連絡ヲトリ其指示ニ従フヘシ
第十四方面軍参謀部別班班長 谷口義美

翌日の10日には、降伏儀式のためフィリピン空軍基地に出向き正式に降伏。ここに小野田少尉の戦争は終結した。その2年前の昭和47年2月にはグアムで潜伏していた横井庄一元伍長が発見され27年振りに日本に帰国を果たした。小野田少尉も日本に帰国後、南米で牧場を経営し余生を満喫している。

画像
帰国した小野田元少尉


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