第五福竜丸被爆事故


−経緯−
昭和29年3月1日、静岡県焼津漁港の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が太平洋・マーシャル諸島のビキニ環礁近くで、米国の水爆実験による死の灰を浴びる被爆事件が起こった。午前3時50分、水平線から一斉に光があふれて昇ってきた。その光の中に第五福竜丸は包まれた。漁労長の見崎吉男は無線長の久保山愛吉に「アメリカの船や飛行機が哨戒しているはずだ。厳重に見張ってくれ」と指示し甲板員に「エンジンを掛けろ・縄をつかめ」と指示した。

閃光から7〜8分してドーンとものすごい音がした。キノコ雲が上空を襲い付近は一変した。午前7時頃、白い灰が雨といっしょに降り始めた。灰は甲板に足跡が残るぐらい降った。二日目には目や口元がヒリヒリし手のひらが痛み出した。一週間すると仲間の髪を掴むと掴む分だけ髪が抜けた。

3月14日、乗組員23人を乗せた第五福竜丸は静岡県焼津に帰港した。全員がガイガー・カウンターで計測したところカウンターは激しく反応し「急性放射能症」と診断された。結局23人の内8人が亡くなり、生き残った乗組員も後遺症に悩まされることになった。

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放射能を浴びた第五福竜丸

−その後の運命−
福竜丸から水揚げされたメバチ、キハダマグロやサメ計31本が東京・築地のセリに掛けられるところだった。焼津港からの連絡で漁獲した魚を隔離し東京都衛生局の職員がこれらの魚にガイガー・カウンターで計測すると激しい反応を示した。これに立ち会った関係者は後日「見た目には色も無く、音も無い、熱くも無く普通の状態なのに放射能の恐ろしさを感じた」と言う。ビキニ環礁付近で操業した漁船の水揚げは東京・三崎・焼津・清水・塩釜の五港に限定され全て赤ペンキを塗り房総半島沖に破棄された。

昭和29年9月23日の夕方、東京・戸山の国立第一病院で無線長の久保山愛吉が息をひきとった。40歳だった。さぞ無念であったろう。その後、他の乗組員は昭和30年5月に退院したが7人が帰らぬ人となった。実験で使用した米国の水爆は核融合燃料の重水素化リチウムのウラン238で出来ていたと推測され、その威力は広島原爆型の何十倍の破壊力をもっていた。人間の英知は時にこのような愚かな遺産を遺してしまうのである。
尚、第五福竜丸は東京湾に朽ち果てているのを見た関係者が修復し現在、東京・夢の島公園にある「第五福竜丸展示館」で第二の人生を刻んでいる。

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福竜丸の航路(出所:財団第5福竜丸平和協議会) 漁獲したマグロを放射能計測器で調査する検査官


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