三井三池炭鉱爆発事故


−経緯−
昭和38年11月8日午前11時頃、福岡県大牟田市の三井三池炭鉱で炭塵による爆発が起こった。その結果、爆風と火炎、さらに落盤で死者458人、重軽傷者555人をだす戦後最大の炭鉱事故となった。

現場は、坑口から500メートルほど入った坑内で、突然大爆発が起こった。近くにいた鉱員は、逃げる間もなく爆風により吹き飛ばされたり火炎により即死。現場から離れて作業をしていた鉱員らも、一酸化炭素が坑内に充満したため中毒死するなど多くの犠牲者がでた。

また、救助活動も二次災害の恐れがあり迅速な活動ができなかった。このため、坑口付近では安否を気づかう鉱員の家族や会社関係者、警察、消防、報道関係者らで騒然となった。

その後、安全を見計らって救助隊が坑内に入ると、いたるところに死者や負傷者が横たわっており地獄絵図のようだった。坑口では、次々に担架に乗せらて運ばれてくる遺体にしがみつき嗚咽する家族の映像がテレビで映し出された。

だが、救助作業は困難を極めた。それは、三井三池炭鉱は複雑かつ広範囲のトンネルが迷路のようになっており、一番深いところでは有明海の海面下600メートルにも及び、坑内電車を乗り継いで1時間もかかるような場所もあったからだ。しかも、炭塵により二次爆発の恐れがあるため大掛かりな機材を持ち込めないという理由もあった。

−原因−
炭塵爆発は、石炭を採掘する際に浮遊する炭素粉塵が原因。この粉塵に直接引火しても爆発はしないが、空気中に広がった炭素粉塵は粒子が小さいので通常の酸素濃度でも可燃する。されが広範囲に及ぶと爆発を誘発するとされるが、常に清掃と水を撒いて湿らせておけば爆発は起こらない。

三井三池炭鉱爆発事故は、その後の調査で、炭塵あるいは酸素濃度などをチェックをする保安要員の配置が「三井三池炭鉱争議」による極端な合理化で十分ではなかったことが要因とされた。また、組合側にも、そのチェック体制に不備があったとも言われている。

−三井三池炭鉱の歴史−
三井三池炭鉱の歴史は1469年に地元の農民が゛燃える石゛を発見したことから始まる。その後、明治6年に国営となり囚人を使って採掘を開始。明治22年に三井財閥に払い下げられて民営化となった。

昭和14年には、朝鮮人を強制連行して過酷な労働をさせて戦後賠償請求の訴訟を起こされた。戦後、昭和34年から35年にかけて会社側の合理化に反対する組合側と争議となった。そして、ようやく労働争議が沈静化した矢先に大事故が起きたのだった。

事故後、助かった鉱員らに一酸化炭素中毒の後遺症が襲った。重傷者は肢体を動かすこともできず家族と意思疎通ができない状態から、軽傷の者でも精神的障害をきたして頭痛を訴えたり、躁鬱を繰り返すようになった。会社側との訴訟では、その後30年間も争うことになった。鉱員やその家族に二重、三重の苦難が待っていたのである。

その後、平成9年3月に三井三池炭鉱は閉山し長い歴史に幕を降ろした。


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