円谷幸吉自殺事件


−経緯−
昭和43年1月9日午前11時頃、東京都練馬区の自衛隊体育学校の宿舎で、東京オリンピック・銅メダリストの円谷幸吉(当時27歳)が髭剃り用のカミソリで頚動脈を切って死亡しているのを隣室の自衛官が発見した。遺体のそばには、両親や兄弟に宛てた遺書が置かれていた。

円谷は、昭和11年のベルリンオリンピック以来28年振りの陸上競技メダリストとして一躍日本の英雄となった。このため次回のメキシコオリンピックに向けて、日本中の国民や関係者から声援とプレッシャーを受けていた。その英雄の突然の死に日本中が驚愕した。

−東京オリンピック−
日本が、終戦のどん底から立ち直り゛もはや戦後ではない゛といわれるほどの高度経済成長を成し遂げ、その集大成として゛アジアで初のオリンピック開催゛が東京に決定。昭和39年10月21日、快晴のなか国立競技場からマラソンランナー達が一斉に甲州街道(国道20号線)を目指した。先頭集団には、前回のローマオリンピックで金メダリストのエチオピアの英雄・アベベ・ビキラや国内で有力視されていた君原健二、寺沢徹らに混じって、マラソン経験7ヶ月の円谷も走りつづけた。

立川市の折り返し点から後半にかけて、君原や寺沢らが後退していくなか円谷は快走を続け、トップのアベベに次ぐ2位をキープしたまま国立競技場に戻ってきた。スタンドで見守る6万人の大歓声の中を、円谷は顔を右に傾けながら最後の力を振り絞りトラックを周回した。だがゴール手前でイギリスのヒートリーに抜かれ3位でゴールした。

惜しくも銅メダルになったものの、戦後初めて陸上競技で日の丸が掲揚され゛日本中が歓喜゛した。円谷は多くの日本人に自信と夢を与えた。一方、円谷は一夜にして日本の英雄となった。

レース後、円谷は早くもインタビューで「もっと練習して4年後(メキシコオリンピック)を目指したい。もう一度アベベ選手と走りたい」と応えた。

−怪我とプレッシャー−
円谷は、福島県須賀川市で出生。昭和34年、県立須賀川高校を卒業後、陸上自衛他に入隊した。配属先の郡山駐屯地で陸上部を設立し各競技に参加した。その後、めきめきと頭角をあらわし東京オリンピックの前年の昭和38年8月には世界陸上の2万メートルで2位ではあったが世界記録を樹立。中距離ランナーとして日本NO1となった。

その後の陸上選考会で、円谷は中距離とマラソンの競技に選ばれた。だが、マラソンは経験が浅く当初から注目はされていなかった。それだけに、ノーマークの円谷が銅メタルを獲得したことは、日本陸上会にとっては救世主だった。

だが、その後、円谷は怪我・故障に泣いた。昭和42年夏に持病の椎間板ヘルニアとアキレス腱の手術をしたが、回復は遅かった。さらに同年10月にはアキレス腱部分断裂の手術を行った。

メキシコオリンピックまで1年をきっていた。自衛隊はもとより陸上関係者や多くの国民が円谷に期待していた。一方、怪我や故障で練習がままならない円谷は焦りと苛立ち、そして巨大なプレッシャーを受けつづけていた。

そんな中、円谷には結婚を誓い合った女性がいた。恐らく、日々の苦悩を打ち明け、また彼女はそれを受けとめて励ましていたのではなかったか。だが監督は、「メキシコオリンピックが終わるまで、結婚はおろか付き合いも禁止」という厳しい条件を円谷に課した。円谷は八方塞となった。

その年の12月末に円谷は実家に帰省した。年が空けて昭和43年1月4日の夜、東京都練馬区の自衛隊体育学校の宿舎に戻った。それから4日後の8日夜、円谷は自室で自殺を遂げた。恐らく、これが最後で覚悟の帰省だったのであろう。遺書は、円谷らしい親思いで生真面目な、そして責任感の強い性格がみてとれる内容だった。ここに要約文を掲載する。

−遺書−
父上様、母上様、3日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しうございました。
勝美兄、姉上様、ブドウ酒、リンゴ美味しうございました。
(中略)
父上様、母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。
気が安まる事もなく、御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。
校長先生、済みません。
宮下教官、御厄介お掛け通しで済みません。
企画課長、お約束守れず相済みません。
メキシコオリンピックの御成功をお祈り申し上げます。

この年の8月、メキシコオリンピックで君原が円谷の分まで走り続けて銀メダルを獲得した。


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