駅止め殺人事件


−経緯−
昭和32年5月2日午後4時頃、博多駅の荷物倉庫で職員が異臭のひどい不審な荷物を発見した。この倉庫は、引取り人が現れない荷物を一旦集約するための保管場所で、職員は数日前から異臭がするとの連絡を受けて荷物を調べていた。この荷物はコモで包まれ外側を木枠で梱包されており、名古屋駅から博多駅止めで送られてきた荷物だった。

職員は警察へ通報し、警察官の立会いで木枠を壊し、コモ、布団を取り外すと中から腐乱した男の遺体が現れた。遺体はビニール袋に折り重なるような状態で入っていた。

警察は殺人事件として捜査を開始した。早速、遺体を剖検した結果、「死後2ヶ月、身長1メートル53センチ。頭部を鈍器のような物で殴打され頭蓋骨が陥没していた」ことが判明した。

死後2ヶ月ということから3月上旬に殺害されたことになる。だが、遺体が入っていた荷物は4月11日に博多駅に着いて1ヶ月間も放置されたままだった。すると殺害された3月上旬から4月11日までの間、荷物はどのような経路をたどって博多駅に着いたのであろうか。

警察は手始めに、荷札に記載してある宛先の「福岡県博多駅前・神野病院、神野良三様」を調べたが全て架空であった。発送人は「名古屋市中村区牧野町、東海レントゲン株式会社」と記載されていたが、こちらも実在するはずがなかった。だが、博多駅の荷物帳簿を照会すると3月11日に名古屋市内の笹島駅から発送されていることが判明した。

捜査官は博多から名古屋市中村区の笹島駅に駆けつけ、職員の荷物係から事情聴取した。その結果、この荷物を発送したのは27、8歳位の男で上下の背広を着ておりサラリーマン風だったとの証言を得た。さらに、この荷物は東京の汐留駅から笹島駅止めで届いたことが判明。捜査官は、今度は汐留駅に急行した。

汐留駅の職員は、一日に数万件の荷物を扱っており一々発送人の容姿を覚えていなかったが、帳簿を見ながら少しづつ記憶を呼び起こした。それによると3月10日に「この電気器具を名古屋の笹島駅まで送りたい」と27歳前後の男が現れたという。中身は扇風機や電熱器ということであったが、梱包もしっかりしており重量85キロ分の料金を受け取って荷物を預かったという。帳簿では、発送人は「東京都中央区新富町 前田電気株式会社 前田一夫」で、宛先は「中村区牧野町 前田一夫」であった。勿論、発送人も宛先人も架空だった。

この結果、3月10日に東京の汐留駅から荷物を発送した男と翌日の11日に名古屋の笹島駅で受取り、さらに博多駅へ発送した男は容姿、年齢から同一人物であることが判明、この男が犯人であることを断定した。

一方、遺体を包んでいた布団やビニール袋などの遺留品から捜査した結果、河本昭次(仮名、当時20歳)が浮上。荷物係の証言による年齢に関してはブレがあったが容姿に関しては酷似していた。このため、5月21日実家がある岡山県玉野市に帰省していた河本を逮捕した。河本は捜査官の取調べに犯行を素直に認めた。

河本の自供から、被害者の男は川端一夫さん(当時21歳)であることが判明した。さらに、河本は「川端さんと生地販売をしていたが、売上をピンはねしていると思い殺害した」と犯行の動機を供述した。

−生地行商−
河本の父親は昭和20年8月10日フィリピンにおいて33歳で戦死。母親も昭和22年12月に病死した。あとにのこされた2歳年上の兄、本人、6歳歳下の弟の3兄弟は別々に親類へ預けられた。

河本は小学校の頃から盗癖があり、度々警察に補導された。中学校を卒業後、地元の鉄工所に勤めたが昭和27年9月1日、「田舎は嫌だ」と家を飛び出し上京した。知り合いもなく職を転々としたが、昭和30年7月頃、河本は背広の生地を全国の仕立て屋に販売する外交員になった。

この当時、地方ではテレビ、新聞などを経て得られる情報は現代と比較にならないほど遅かった。当然、ファッションに関しても東京で流行すると東北から以北で流行るのは2年後であった。そこで、東京で売れなくなった背広生地を地方の仕立て屋に販売することで、拡販と在庫整理が一挙にでき「うまみ」のある商売だった。

河本は、まず北海道で販売しようと仕入れた生地を「駅止め」で発送した。河本ら同業者は、地方で完売すると仕入れ会社に電話や電報で連絡し生地を駅止めで発送してもらう。また、次の地方で販売するとなれば当地の駅から駅止めで生地を発送する。こうして地方から地方へ渡り歩き、目的を達成すると東京に戻ってくるのだ。

だが、河本は素人。仕立て屋から生地の値引き要請に仕入額より下回って販売したり、売上金を飲み代に回してしまった。ついに大損をだして東京に戻ってきた河本は、仕入れ会社から怒鳴られ借金を負い込んでしまった。

次こそはと意気込んで東北地方に出かけた河本は、同業者の川端さんと知り合った。川端さんは、この道のプロで生地を次々に販売して羽振りがよかった。次第に、河本は川端さんと組んで生地の販売を行うようになった。川端さんは人脈を活かし、得意の話法で仕入れた生地はすぐ完売になった。完売になれば、すぐ仕入れ会社に連絡し駅止めで発送してもらいながら2人は四国、九州、中国地方、甲信越へ足を運んだ。

東京に戻った2人は売上金の配分を行った。だが、この配分に河本は不審を抱いた。「そういえば川端さんは仕入れや販売額などの伝票を見せたことがなかった。これは、川端さんが一方的に搾取しているに違いない」と思い込んだ河本は川端さんに殺意を抱いた。

昭和32年3月5日午後、東京都巣鴨にある河本の下宿先に訪ねてきた川端さんに「仕入額を騙しているだろう」と言いがかりをつけて口論となった。川端さんは「言いがかりだ」と否定したが、河本はスキをみてこん棒で川端さんの後頭部めがけて殴打した。

殺害した川端さんの遺体処理に困った河本は生地の発送方法を思い出した。こうして、川端さんの遺体を布団に包み木枠梱包にして駅止め発送したのだった。公判で、検察側は死刑を求刑したが、東京地裁は河本に無期懲役を言い渡した。検察側は控訴したが、東京高裁は一審を支持し無期懲役が確定した。


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