兄弟決闘殺人事件


−経緯−
昭和44年4月14日午後11時15分頃、東京・本郷の東大赤門近くの旅館に宿泊していた、京都大学4年生・H・N(当時24歳/以下、兄)が弟の早稲田大学3年生・H・K(当時22歳/以下、弟)を登山ナイフで刺殺した。

騒ぎを聞きつけた旅館の従業員は2人の部屋に入ると、兄が弟に馬乗りになって、両手に持った登山ナイフで「わかったか、わかったか」と絶叫しながらメッタ刺ししていた。そして、絶命した弟に向かって今度は静かな声で「わかってくれたな、な」と呟いた。

旅館の従業員は直ちに警察に通報。駆けつけた本富士署の警察官は兄を現行犯逮捕した。早速、兄を取り調べたところ、彼の父親は通産省(当時)のエリート官僚を経て九州の某県から連続当選している自民党代議士のH・T氏であることが判った。さらに、この兄弟は小学生の頃から異常なほど憎みあい、毎日喧嘩が絶えなかったことも明るみになった。

取り調べによると、兄は前日の13日に下宿先の京都から上京。翌日の14日、本郷郵便局から赤坂の議員宿舎に寝泊りしている弟に「ゴゴ 6ジハン ヤスダ コウドウ マエニコイ カワセ」と電報を打った。まさに決闘状である。兄は「小学生の頃から性格が合わず、仲良くした記憶もない。大学に入ってから反目は深まるばかりだった。今年3月頃これ以上反目していたのでは家の中が暗くなるばかりだ。場合によっては殺してでも、このいやな状態をなくそうと思った」と供述した。

兄は午後6時に東大安田講堂前で弟と合流。この時は、何故か口論もなく2人は兄が予約していた旅館に戻った。暫くはテレビなどを見ながら時間を潰したが、やがて弟の口から「今度会った時は、空手でこうしてやる」と挑発してきた。これにカッとなった兄は背広の内ポケットに隠し持っていた登山ナイフで弟を刺し殺したのだった。

−正反対の兄弟−
この兄弟は性格が正反対で性行は同じという2人だった。兄は、幼少の頃から礼儀正しく近所でも評判の秀才少年だった。体躯は小児喘息もあって弱々しく、運動神経はよくなかった。一方、弟は正反対で本など蹴散らして暴れ回って友達を泣かせたり、近所の家に泥を投げ込んだりと近所では評判のガキ大将だった。

2人の性格は中学、高校と進学するにつれて益々顕著になっていった。例えば、親戚が自宅に訪問すると兄は正座して挨拶するのに対して、弟は寝そべったまま。兄としては、弟の仕草が一々気に入らない。一方の弟も良い子ぶって運動神経の鈍い兄が一々気に入らない。だが、共に頑固で自分の意見は絶対に曲げないという性行は似ていた。このため、毎日のように喧嘩が続いた。

腕力だけでなく、学業も互いに対向意識をもった。兄が高校受験で都立高校の名門・戸山高校の受験に失敗したのに対し弟は都立高校に進学。2人の関係は全てが勝負であったから、弟の勝ち、兄の敗けという馬鹿馬鹿しいことでまた口論となった。大学進学では、共に東大受験に失敗し兄は京大、弟は早大。ともに名門大学でありながら国立の分だけ兄が勝ち、弟が負けということになる。

兄は京大に入ると、腕力で分がある弟に勝つため空手部に入部した。一方の弟も空手の有段者。事件の1年前の3月には、上智大学のグラウンドで大喧嘩をした。兄は怪我を負ったが「あれは引き分けだった」と言い張った。

このような状態であったから、親も兄弟を引き離そうと、弟は議員宿舎で私設秘書として寝泊りするようになった。だが、一度杉並にある自宅に2人が出会うと喧嘩が絶えなかった。

−愚弟賢兄と強弟弱兄−
愚弟賢兄は世間でもままある。だが、弟は強弟弱兄を自ら演じた。確かに父親譲りの鹿児島男児の血統を受け継ぎ、文武両立しバンカラ風の弟は父親からみて理想の息子だったのではないだろうか。これに対して、兄は長男としての立場を守るのに必死であった。兄弟でなければ、学業抜群で礼儀正しい兄、スポーツマンで明るい弟はそれぞれに高い評価を得たはずだ。

兄の精神鑑定をめぐって長期公判となったが、昭和46年3月3日に東京地裁は「心神こう弱であったが刑事責任能力はある」として兄に懲役6年(求刑10年)を言い渡して刑が確定した。


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