保全経済会疑獄事件


−経緯−
昭和29年1月26日、警視庁と東京地検特捜部は保全経済会理事長・伊藤斗福(当時39歳)を詐欺容疑で逮捕した。それと同時に全国の支店、出張所の家宅捜査を一斉に開始した。

伊藤の逮捕容疑は、「40億円以上の金を約8万人から出資金名義で集め詐取した」というものであった。事件の発端は、前年の昭和28年に保全経済会の高松支店が、払い戻しの資金が不足し取り付け騒ぎを起こし、これが全国の支店・出張所に波及して出資金の受け入れがストップ、ついに休業することになったため。

当時の40億円は現在(平成18年)の価値に換算して5000億円前後に相当するのだろうか。いずれにしても莫大な出資金が回収できないとあって、出資者の間で大騒動となった。

−伊藤斗福−
伊藤は大正4年3月30日に韓国・釜山で出生した。両親は韓国人で旧姓は丁斗福といった。昭和2年、伊藤が12歳の時、東京の江戸川に移住し小学校を卒業。間もなく鞄製造所に住込みで奉公した。その後、独立し昭和15年に岩手県の農家の次女と結婚。この時、伊藤斗福と名乗るようになった。

終戦直後、伊藤は大手生命会社の外交員として再出発した。この頃から伊藤の才能が萌芽し始めた。伊藤は身長170センチ、容姿端麗で海外赴任から戻ってきたという雰囲気があり、勧誘を受けた人は大抵契約書に署名したという。このため、契約の成績は抜群でいつの間にか支社次長まで昇進した。

この頃から伊藤は、庶民の利益追求心や物価上昇に比較して預金者の金利が極めて低い事に着目した。そこで「資本を一般大衆から広く集めて、これを産業に投資すれば、産業の復興ができると同時に、投資で得た利益を出資した大衆に還元できる。すると大衆の生活も向上するはずだ」と考えた。即ち、現在の投資信託銀行の原形を考えたのであった。

−保全経済会とは−
昭和24年10月、伊藤は江戸川区小岩に僅か4坪の店舗を借りて保全経済会を発足した。理事長は伊藤、事務長1名、女子事務員1名の計3名で開設した当初は、帳簿に大学ノートを使用するという貧弱なスタートだった。

この保全経済会は、商法の匿名組合の規定に準拠した組織だった。即ち、集めた出資金は伊藤の所有であり、利益がでなければ返済する義務はないという性格のものであったが、伊藤は「出資金は3ヵ月後に返済する」と営業案内に明記していたため出資者は安心して投資した。

ところが、「光クラブ事件」が影響し保全経済会も計画通りに出資金が集まらなかった。そこで、伊藤は光クラブ事件の影響が少ない関西方面に着目した。早速、昭和25年1月に大阪支店を開設すると、1県1支店3出張所を目標に全国的な組織に拡大していった。

昭和27年には、保全経済会の保有株式は550万株、投資額も6億円を上回り、大手証券会社も驚愕した。

だが、昭和28年になって国内の景気低迷を受けて株が暴落したこと、事業投資した24社の殆どが赤字経営であったことから次第に出資者に配当金を還元することができなくなり休業状態に陥った。

昭和29年5月7日、東京地裁は保全経済会の破産宣告を受理した。届け出確定破産債権の総額は47億2300万円という巨額なものだった。これらの資金は一体どこに消えたのであろうか。

−政治スキャンダル−
伊藤は、相互金融法の立法化で保全経済会を磐石な体制にしようと、政治資金を大物政治家にばら撒いた(一説で7000万円以上といわれている)。鳩山一郎、三木武吉、石橋湛山などの大物政治家の名前がぞろぞろ出てきた。

また、保全経済会の顧問として右派社会党の平野力三、改進党の早稲田柳右衛門らが就任していたことが発覚。昭和29年2月に衆議院の行政監察特別委員会で証人喚問された平野力三は「保全経済会が政治資金として鳩山、三木に1000万円を献金した」ことを認めた。

昭和35年3月29日東京地裁は伊藤に対して懲役10年を言い渡した。伊藤は控訴したが、東京高裁は一審を支持して控訴を破棄。伊藤に懲役10年が確定した。


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