仙台・幼児誘拐殺人事件


−経緯−
昭和39年12月21日午前11時55分頃、宮城県仙台市で菅原光太郎さん(当時40歳)が経営する会社に男の声で「白百合幼稚園の者だが、智行君に伝えて欲しい。じつは幼稚園のエミール神父が急に渡米することになったので、休み中だが一緒に記念写真を撮りたいので幼稚園の庭まで来てほしい」と電話があった。この電話を受けた女性社員は会社から菅原さんの自宅に出向き、電話の内容を伝えた。

智行ちゃんは(当時6歳)、菅原家の三男で自宅から200メートル程の距離にある白百合幼稚園に通っていた。この日は、幼稚園は休みであったが、家人は電話の内容を信じて智行ちゃんを見送った。

だが、午後5時になっても智行ちゃんが帰ってこないことに不安を抱いた母親が白百合幼稚園に電話連絡すると、幼稚園からはそのような事実はなく偽電話であったことが判明した。午後5時10分、母親は仙台北署東3番丁派出所に届け出た。

仙台北署は、誘拐事件とみて直ちに非常配備体制を整え約300人の警官が市内の要所、要所で検問を始めた。捜査班は菅原宅に待機し犯人からの電話を待った。

午後5時40分、犯人からの電話があった。母親がでると「500万円を持って市立病院からまっすぐに河北新報社まで進め。目印に白いマフラーをかけ、左手に新聞紙を持って歩いてくれ」と男の声で身代金の要求をしてきた。捜査班は、身代金の引渡し場所を特定してこなかったことから、すれ違いざまに金を強奪したあと逃走するものとみて、警察官の配備を一層強化するよう指示をした。

午後8時10分、犯人から3回目の電話があった。「まだ出かけないのか」という短い内容であったが、母親は捜査班の指示通り犯人のやりとりを引き延ばし逆探知の時間を稼いだ。その結果、犯人がかけてきた電話は菅原家から僅か700メートルの至近距離にある電話ボックスであることが判明した。

警察は、この電話ボックスを中心に955人の警察官を周囲に配置し検挙体制に入った。午後8時30分、母親は20万円を新聞紙に包んで江北新報社から仙台電報局にかけて歩いた。その時、前方から歩道を足早に歩いてきた男が母親と行きかう瞬間、母親が手に持っていた新聞紙の包を強奪し逃走した。その瞬間、周囲を張り込んでいた警察官が男を取り抑さえ現行犯逮捕した。

男は、「幼稚園の前で智行ちゃんが来るのをレンタカーで待ち伏せして誘拐した。車中で泣き叫ぶ智行ちゃんが邪魔になり首を絞めて殺害し、自宅の物置に遺棄した」と自供した。智行ちゃんを殺害してから身代金の要求をしていたことが判った両親は我が子の不憫に泣き崩れた。

−元俳優の光と暗闇−
犯人は元俳優で車興吉(当時29歳)であった。車は天津七三郎という芸名で新東宝の二枚目俳優として昭和31年にデビュー。その後、松竹に移籍して松方弘樹の父親である近衛十四郎や田村高広、岩下志麻など大物俳優と共演したこともあった。だが、絶頂期もここまでで次第に仕事がなくなり転落していった。

車は、実家がある仙台に戻り母親と身重の妻と3人暮らしで新たな人生のスタートをきった。だが、一時であれ銀幕の華々しい日々が脳裏に焼きつき、知人から借金しては派手な生活を続けた。更に借金を重ねて会社(ブローカ)を設立したが、僅か3ヶ月で倒産。車の借金は更に増えつづけていった。

そこで車は、裕福な家庭の幼児を誘拐し一獲千金を得ようと計画した。以前、ブローカの仕事で菅原さんの会社を訪問した際、地元では大変な資産家であり事業が順調である菅原家を思い出した車は、菅原さんの子供を誘拐することを計画したのだった。

検察は車を殺人、死体遺棄、営利誘拐で起訴した。この営利誘拐罪は前年の「吉展ちゃん誘拐事件」を教訓として、罰則を強化するため刑法を一部改正して立法化したもので、東北地方では初の適用だった。

昭和40年4月5日、仙台地裁は車に罪一等を減じ無期懲役を言い渡した。裁判長は車の改悛の情を酌量したのだが、これに対して検察側は控訴した。二審の仙台高裁は一審の無期懲役を破棄して車に死刑判決を言い渡した。昭和43年7月最高裁は車の上告を棄却して死刑が確定した。昭和49年7月、仙台拘置所で死刑執行となった。


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