皇民党「ほめ殺し」事件


−経緯−
昭和62年10月6日午前8時、東京都目白の田中元首相の私邸に竹下登(当時62歳)が訪問した。この日は雨模様であったが、門前に竹下のハイヤーが着くと竹下自ら車から降りて長谷川信衆院議員に名刺を渡して田中家への取次ぎを依頼した。

だが、長谷川は「田中家は竹下の訪問を拒否している」旨を告げると、竹下は素直に車に戻り田中邸をあとにした。時間にしてこの間わずか30秒であったが、田中邸の門前で張り込みしていた報道陣は一斉にカメラを向けて全国ネットでこの模様を報道した。

なぜ、竹下が田中邸を訪問したのか、当時は謎のままだった。だが、やがて真実が少しづつ明らかになっていく。

−竹下元首相の経歴−
竹下は大正13年に島根県の酒本の跡取息子として出生。戦争を挟んで早稲田大学に在学。戦後、卒業すると地元で代用教員のかたわら県議を経て昭和33年5月の衆院選に自民党公認候補として立候補しトップ当選した。以降、持ち前の手腕、錬金術で頭角を現し大蔵(当時)大臣、自民党幹事長など要職を歴任した。

自民党の最大派閥である田中派に所属し゛根回し上手゛、゛聞き上手゛で派閥の中でも群を抜く手腕を発揮した。だが、闇将軍、キングメーカなどと称された田中元首相がロッキード事件における贈収賄で、東京地裁から有罪判決(昭和58年10月)を言い渡されると次第に求心力が低下していった。

そこで、風を読む事にたけている竹下は田中元首相と袂を分つ決心をした。昭和60年2月7日、竹下は田中に「勉強会をしたい」と偽り派閥から80人の議員を集めて「創政会(後の経世会)」を旗揚げした。事実上の竹下派の発足であった。

これに対して田中は「飼い犬に噛まれた」と激怒したが、時すでに遅かった。田中はイライラが募り、朝から大好きなオールドパーを飲みふけった。その結果、心労も重なり2月27日に脳梗塞で倒れ病院に入院した。田中は言語障害や身体の一部が付随となり二度と政界に戻れぬ身となった。

昭和62年になって、当時の首相であった中曽根康弘の任期満了に伴う後継総裁候補の争いが激化していた。立候補したのは、宮澤喜一、安倍晋太郎と竹下の3人。結局、公選ではなく中曽根の指名で決定することになったが、その時、中曽根が「右翼の動も止められないようでは後継総裁として指名できない」と発言。竹下は苦渋した。

−皇民党の゛ほめ殺し゛−
昭和62年1月22日、香川県高松市に拠点をおく政治結社日本皇民党(当時、稲本虎翁総裁)は自治省に「竹下登輝励会」設立届を提出した。以降、1月末から10月2日まで街宣車を使って「竹下さんは立派な政治家です。日本一金儲けの上手い竹下さんを総理大臣にしましょう」と拡声器を使って東京を走り回った。

中曽根からは、「右翼活動を止めさせなければ総裁指名をしない」と言われ、竹下は心労から円形脱毛症になったという。焦った竹下は腹心で参謀の金丸信に相談した。そこで金丸は東京佐川急便社長の渡辺広康に皇民党の活動を中止できないかと持ちかけ、渡辺は広域暴力団・稲川会の石井進前総裁に皇民党との仲介をお願いした。

同年10月2日、東京の某ホテルで石井前総裁と皇民党の稲本総裁は会談した。石井前総裁が「活動を中止してもらうには、どうしたらよいか?条件はどんなことですか?」との問いに、稲本総裁は「竹下が田中元首相を訪ね、謝罪すること。それだけです。竹下がこのまま総裁選に当選すれば、裏切り者が天下を取ることになりませんか。だったら、あの明智光秀も英雄ということになり歴史を書きかえなくちゃならなくなる」と言ったという。

石井前総裁は、先方にその条件を伝えることを約束。これ以降、日本皇民党の゛ほめ殺し゛活動はピタっと止まった。その結果が、冒頭の竹下が田中邸に訪問した経緯であった。

同年10月31日、竹下は中曽根から指名を受けて念願の総裁となった。翌月の11月6日、国会で首相指名を受けて竹下は内閣総理大臣に任命された。まさに、暴力団の介入によって内閣総理大臣になった稀有の元首誕生の瞬間だった。

−闇の世界−
日本皇民党に゛ほめ殺し゛を指示し操ったのは誰なのか?現在まで数々の憶測、噂が流出している。その中で、有望な説として伝えられているのは、佐川急便の佐川清会長(当時)が仕掛けたというものだ。

佐川会長は田中元首相と同じ郷里の新潟から裸一貫で上京。我慢、忍耐、努力で日本大手の運輸会社を興した佐川は立身出世の中で色々と田中からの支援を受けてきた。゛その恩義がある田中先生をいとも簡単に裏切り、反旗を翻した竹下は到底許せることはできない゛と皇民党に働きかけて゛ほめ殺し゛を始めたという説である。更に、東京佐川急便の渡辺社長が竹下、金丸ラインであることに危惧を覚えたと言われている。

−竹下王国の崩壊−
念願の首相になった竹下の政権は短命だった。わずか1年半の間に、竹下が首相になるがための資金造りにボロが方々から出てきた。前述の東京佐川急便渡辺社長の不正融資問題、リクルート事件など「政治=金脈」がクローズアップ。竹下内閣の支持率は史上最低の8%となり平成元年4月25日、竹下はついに首相退陣を表明した。

その翌日の26日、竹下の金庫番で長く秘書を務めていた青木伊平が自宅で首を吊って自殺した。まさに竹下王国の終焉だった。

その後、竹下は最大派閥のリーダとして宇野、海部、小渕と次々にロボットを首相にしたが、平成11年4月5日に変形性脊髄症で入院すると外部の人間と完全にシャットアウトした。求心力も無くなった平成12年6月19日、すい臓癌で死去した。享年76歳だった。

「言語明瞭、意味不明」と言われた竹下の最後を看取ったのは、ごく限られた親族のみだった。


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