外交官令嬢焼殺事件


−経緯−
昭和42年6月30日早朝、東京都世田谷区玉川等々力町の多摩川土手で黒焦げの死体を牛乳配達員が発見し近くの交番に届けた。早速、警察が現場に駆けつけ検証を開始した。その結果、死体は指にピンクのマニキュアをしており20歳から30歳代の女性であることが判明した。だが、現場に遺留品は無かった。

解剖の結果、死体は胸部・腹部に損傷があり他殺であることが判明。このため、警視庁は殺人事件として捜査本部を設置したところ、間もなく東京都国立市の主婦が娘ではないかと問い合わせてきた。そこで捜査本部は死体を主婦に確認してもらった結果、身体の特徴から娘のA子さん(当時29歳)であることが判明した。

A子さんの父親は外交官でブラジル総領事。父親がブラジルに赴任しているためA子さんは港区にある外資系の会社に勤めながら母親と2人で留守を守っていた。

捜査本部は死体発見前の状況を母親から事情聴取すると、前日の29日会社に出勤する際に着けていた純金の指輪、真珠のネックレス、ワニ革のハンドバックがなくなっていることがわかった。このため物取りの犯行も考えられたが、それにしては焼殺という残忍な殺害方法に怨恨の線が強くなった。

そこで、捜査本部はA子さんの交友関係、会社関係者を中心に徹底的な調査を行った。やがてA子さんの複数の交友関係者の証言から日本橋にある貿易会社に勤務する会社員の久芳光(当時30歳)が捜査線上に浮上してきた。

7月4日になって捜査本部は久芳を逮捕した。決め手となったのは久芳の車の中からA子さんの指輪が発見されたこと、29日の夜から30日の朝にかけてアリバイが明確でないことだった。

久芳の父親は貿易関係の仕事をしており海外赴任が多かった。この関係で久芳もハワイで出生したが、4歳の時母親が死亡したため父親の実家である九州の祖母のもとで生活することになった。やがて終戦を経て横浜に家出した久芳は米軍の兵士に拾われてキャンプで働いた。

やがて、父親に発見され家に戻された久芳は昭和29年4月、青山学院大学高等部に入学したが窃盗を度々犯して退学。その後、得意の英語力を活かして貿易会社に入社したのだった。

−犯行の動機−
久芳の英語力は抜群で派手な立ち回りは周囲の女性たちの注目の的だった。この頃、A子さんは会社の取引関係で久芳と出会った。父親の影響で国際的な感覚を持ち合わせているA子さんは久芳に一目惚れした。ハワイ大学卒と偽称して窃盗や詐欺などの前科がある久芳にとって良家の令嬢をだます事はわけなかった。

久芳は既婚者であることを隠して独身を装いエリートビジネスマンを演じた。すっかり騙されたA子さんは、久芳が事業を始めるからと資金援助の要請に多額の金を渡した。A子さんは、「結婚しよう」という久芳の言葉を信じてしまったのだ。

ところが、何年も付き合っても結婚話に進捗がなく、やがて久芳が妻帯者であることが発覚すると、「妻とはうまくいっていない。離婚するつもりだ」と逆に離婚の慰謝料にまとまった金が必要だと借金の催促をした。

そして6月29日の夕方、A子さんは退社後久芳と合流。久芳とドライブ中の車内でA子さんが久芳に「いつ奥さんと離婚するのか。いつ結婚するのか」と問い詰めた。最初から妻と離婚する気はなかった久芳はカッとなって車からA子さんを引きずり出して胸や腹などを蹴った。気を失ったA子さんにトランクにあった補助容器のガソリンを撒いてA子さんに火を点けたのだった。昭和43年6月に久芳に死刑が確定した。

−母親の自殺−
A子さんの母親は娘の無残な死に大きなショックを受けた。2人で暮らしていた国立の自宅に娘はもういない、居たたまれなくなった母親は夫と暮らすためブラジルに渡った。だが、この世から娘がいなくなったことに耐え切れず浴室で首吊り自殺した。
久芳はA子さんのみならず結果として母親も殺したことになった。


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