和歌山・一家8人殺害事件


−経緯−
昭和21年1月29日、和歌山県和歌山市の大橋一雄(当時26歳)は、歯科医師で兄の勝一さん(当時42歳)と兄嫁の伸枝さん(当時41歳)、長男(当時16歳)、長女(当時14歳)、次男(当時13歳)、次女(当時10歳)、三男(当時7歳)、四男(当時3歳)の兄一家8人を斧とノミで殺害した。

大川は殺害後、「母のカタキなり。一ヵ月後に自首する・・・」と書置きして逃亡した。警察は大川の行方を追ったが、終戦から僅かに5ヶ月を経た国内は大混乱しており、今日の食糧確保がままならないという状況では和歌山市周辺を聞き込む捜査以外に方法はなかった。

一方、大川は偽名を使って長崎へ逃亡し炭鉱夫として働いていた。だが、良心の呵責に耐え兼ねて2年後の昭和23年3月19日に大阪の朝日新聞本社に自首してきたところを警察に逮捕された。

−動機−
大川は大正9年に和歌山市で県庁官吏の父親の子として出生。家庭は裕福で不自由なく育ったが、大川が9歳の時に父親が病死した。このため、自宅の隣で歯科医院を開業していた15歳年上の兄の家で母親と一雄も暮らすようになった。

この頃、兄の勝一さんは両親から反対されていた伸枝さんとの結婚を強引に押し進めた。父親が病死したことが契機となった訳だが、母親は反対したものの渋々結婚を認めるようになった。

結婚当初は比較的穏やかな生活だったが、母親が年老いていくにつれて伸枝さんの発言力が増していき、いざこざが絶えなくなった。そこで、大川は家にいることに嫌気をさして昭和15年3月志願兵として陸軍通信隊に入隊した。

入隊から5ヵ月後に「ハハキトク」の電報が届いた。早速、部隊に「伺い申請」し帰省した一雄は、母親の衰弱した体をみて、母親は兄嫁に虐待されていると思い込んでしまった。この時は、危篤を脱したため帰隊したが、その3ヵ月後に母親は帰らぬ人となった。

死因は心臓麻痺だったが、大川は「兄嫁に虐待されたのだ」と思い込み、「この恨みを絶対に晴らす」と心に刻みながら中国や北海道などを転戦した。

昭和20年10月に復員した大川は、空爆で焼け野原になった焼け跡にバラック作りの家で温かく迎えてくれた兄や兄嫁に対して「全てを水に流そう」と決心し、暫くは穏やかな日々が続いた。ところが翌年の1月27日、夕食中に兄嫁が「お母さんは、死ぬ時に苦しんだ・・・こう、喉をかきむしって・・・」とその時の状況を大川に語りはじめた。この時、大川にスイッチが入ってしまった。「やはり兄嫁は母親を虐待したのだ。恨みを晴らそう」と。そして2日後に兄一家8人を惨殺したのだった。

−死刑囚から生還−
昭和23年4月27日、和歌山地裁は大川に死刑を言い渡した。同年12月6日大阪高裁は、大川の控訴を棄却した。大川は素直に刑に従うとして上告しないことを表明したが弁護側が慌てて上告手続きを行った。

昭和24年8月28日最高裁は、「被告人本人の意思に反して弁護側が上告したのは不適法」として上告を棄却し大川に死刑が確定した。

ところが、昭和27年4月27日、突然大川は死刑から無期懲役に減刑する旨の通知を受けた。講和条約における恩赦だった。当時80人前後が死刑確定囚として刑の執行を待つ身であったが、「小田原・一家5人殺害事件」のA死刑囚など12人が恩赦で無期懲役に減刑された。

一方、「帝銀事件」の平沢は大きな期待をしていたものの恩赦リストから外された。無期懲役であれば長くても30年後には社会に復帰できる。あまりにも大きな差である。大川は大阪刑務所で20年間服役した後、昭和43年に仮出所して社会に生還した。


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