美空ひばり塩酸事件


−経緯−
昭和32年1月13日午後9時頃、東京・浅草国際劇場で「花吹雪おしどり絵巻き」で公演中の美空ひばり(本名・加藤和枝、当時18歳)が、熱狂的な女性ファンのA子(当時18歳)に塩酸をかけられた。ひばりは、当初何事が起きたのか分からなかったが、次第に顔面が熱くなるのを覚えて舞台裏に引き下がった。

予定では、最後にひばりが一曲歌って幕だったが、バンドマスターが機転をきかせて急遽エンディング曲に切り替えて緞帳が下がったため、多くの観客は何事も気付かず帰り支度を始めた。

この事態を花道で見ていたひばりの父親・加藤増吉はA子を取り押さえて、駆けつけてきた浅草署の警察官に身柄を引き渡した。警察の取調べでA子は「あの美しい顔が醜くなるのを見たかった」と犯行の動機を供述。つい魔がさしたと言うが、A子は手袋をはめており計画的な犯行は明白。ファン心理の不可思議さを浮き彫りにした事件だった。

一方、舞台裏では母親・加藤喜美枝が半狂乱の状態でひばりを介抱。関係者が騒然とするなか順天堂病院に搬送された。当日は日曜日で担当医師が不在だったが、看護婦が応急措置しながら医師の到着を待った。間もなく駆けつけた医師がひばりを診察し、「火傷の傷跡は残りませんよ」との結果に安堵した喜美枝は、その場で失神した。

ひばりは、病院のベットの中で自問自答を繰り返した。「私のファンなのに、何故私を憎むのか・・・私は何も悪い事していないのに・・・」。

−戦後昭和の大スター−
美空ひばりは昭和12年5月29日横浜市で鮮魚店を営む増吉と喜美枝の長女として出生。幼少の頃から歌が上手で、木箱の上をステージ代わりに歌って近所でも評判が高かった。昭和24年にデビューしたひばりは「悲しき口笛」が大ヒット。終戦で何も無い時代、国民はラジオから聞こえてくるひばりの歌に熱狂した。

その後、ひばりは映画にも出演。全盛期には年間10作以上の映画に出演し、その全てがヒットした。事件から3年後の昭和35年には「哀愁波止場」で日本レコード大賞を受賞し「歌謡界の女王」という名が付けられた。

その後、銀幕の大スター小林旭と結婚したが、母・喜美枝や関係者が2人に何かと干渉。結婚から2年後には破局を迎える。さらに弟が暴力団との関係で不祥事を起こしていた事が発覚。このことが原因で、ひばりはNHKの紅白歌合戦から外されるなど衰退期もあった。だが、母・喜美枝が「お嬢」と呼び庇護する中、持ち前の歌唱力とカリスマ性で日本芸能界の最高峰を歩んできた。

平成元年6月24日、最後の大ヒット曲「川の流れのように」を遺して、入院先の病院で間質性肺炎による呼吸不全のため死亡。享年52歳だった。同年7月、長年の歌謡界に対する貢献を評価され国民栄誉賞が贈られた。


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