鬼熊事件


−経緯−
大正15年8月20日の夜、千葉県香取郡久賀村出沼(いでぬま)の荷馬車引き・岩渕熊次郎(当時35歳)は、自分を騙した情婦・吉沢けい(当時27歳)に復讐するため家を出た。

自宅から3キロメートル離れたけいの住む同村高津原に向かう途中、最近けいと恋仲になった菅沢寅松(当時25歳)方に忍び込み寝ていた寅松をこん棒で殴り殺した。

つぎに、けいとの仲を邪魔した菅沼種雄宅を放火。この火事騒ぎに乗じて近くの多古(たこ)警察の駐在所から短剣を盗んで、けいが住み込みで働いている物品販売業・岩井長松(当時53歳)宅に向かった。

熊次郎が岩井宅に着くと、火事騒ぎで外に出てきた長松を短剣で斬り殺し更に同宅に上がりこみ部屋に居たけいを同じく斬り殺した。僅か30分で、3人の殺害と放火(全焼)を犯した熊次郎は自宅に戻ったところを、張り込んでいた多古警察署の山越刑事と取っ組み合いになった。体力で優る熊次郎は、短剣で山越刑事を突き刺し重傷を負わせて(後に死亡)、山中に逃亡した。

警察は、短剣を盗まれ、それが凶器となり刑事が重傷、3人が殺害されたことに激昂。警察はもとより地元の青年団、消防団、在郷軍人会を組織して大掛かりな山狩りを開始した。

一方、報道も加熱して朝日新聞、読売新聞などが連日トップ扱いの記事で「鬼熊」、「千葉の殺人鬼」などの名称がおどった。

−逃亡42日間−
警察は当初、狭い村である事や周辺は比較的低い山である事から早期逮捕ができるものと楽観していた。ところが、山狩り隊が探索する地点の反対側に熊次郎が現れるという不可思議な事が起った。警察は、獣道にも詳しい熊次郎のことだから神出鬼没なのであろうと見ていたが、あまりにも警察の探索の裏をついてくることに村人の中に熊次郎と密通している者がいるのではないかと不審を抱いた。

事件から3週間後の9月12日の夜、巡回していた警察官が熊次郎と遭遇。取っ組み合いとなったが、熊次郎は手にしていた鎌で警察官をメッタ斬りして殺害した。これで、犠牲者は5人にのぼり新聞報道は益々エスカレート。東京では「鬼熊狂恋の歌」が作られ巷で歌われた。

事件発生から9月末までに動員された警察官は延べ3万6000人、青年団や消防団など2万人を超えたが熊次郎の行方は杳として掴めなかった。

9月30日午前4時30分頃、熊次郎は出沼の先祖の墓前でカミソリで喉を切って自殺を図った。死にきれず苦悶しているところを地元の消防団が発見、直ちに警察に通報した。警察が駆けつけたが、同日午前11時20分に死亡が確認された。熊次郎は、駆けつけてきた実兄の清次郎に「おら、警察の厄介にはならねぇ」と虫の息で言ったのを最後に絶命した。

−熊次郎の人柄と動機−
熊次郎は妻と5人の子供をもつ極めて普通の家庭の主だった。子供の頃から体躯が抜群で強健な体の持ち主だった。このため、過酷な労働である荷馬車引きを生業としていた。このことが、狂暴な男を連想させ新聞記事では「鬼熊」という名称がおどったが、実際の熊次郎は真面目で義理人情に厚い男気のある人物だったようだ。

そんな熊次郎が、飲食店で働く子持ちのけいと知り合った。次第に2人は深い仲になったが、けいからすれば接客程度の考えであったろう。だが、純朴な熊次郎はけいの生い立ちを不憫に思い、稼ぎの大部分を貢いでいた。

地元では、「熊さんはけいに騙されている」と噂されたが、熊次郎は益々けいにのめりこんで行った。だが、案の定けいは二股をかけ熊次郎以外に2歳年下の寅松とも深い仲になっていた。

これを知った熊次郎は激怒。けいと口喧嘩となった。そこで、けいと寅松は熊次郎から恐喝されたとして警察に訴えた。放火された岩井長松は恐喝の事実を警察に証言した。その結果、熊次郎は逮捕され恐喝罪で懲役3ヶ月、執行猶予3年の判決を受けた。

犯行は、この判決を受けた夜に実行されたのだった。

−地元の感覚−
熊次郎は5人も殺害した凶悪犯であるから、地元はさぞかし「熊次郎事件」を忌み嫌い、家族は村八分かと思いきや実態はまったくその反対であった。

それを裏付けるように、村人は家の勝手口、縁側などに握り飯などを置いて熊次郎の逃亡生活を助けていたフシがある。また、熊次郎を発見しても警察には通報しなかったため、大掛かりな大捜索にもかかわらず42日間も逃亡を許すことになった。

これには、時代背景が大きく影響している。当時の官吏は上に媚びへつらい、下に対しては威張り散らしていた。とりわけ警察官は<おい、こら警官>と呼ばれ、警察に少しでも逆らう素振りでも見せようものなら「おい、こら」と警察に連行された。

このため、村人の警察に対する恨みは根強いものがあり、警察の短剣を盗んだり警察の裏をかいて逃亡を続けた熊次郎に心では拍手喝采していた感がある。今日に至っても、地元では熊次郎を「熊さん」と呼び、悪口を言うものはいないと言う。


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