もらい子殺し事件


−経緯−
昭和5年4月13日東京府板橋町(現東京都板橋区)の通称‘岩ノ坂‘の作業員・小倉幸次郎の内妻で小川きく(当時35歳)が「息子(生後1ヶ月)に乳を飲ませていたら誤って窒息死した」と近くの永井医院に駆け込んできた。早速、永井医師が診察した結果、赤ん坊の口元に手で抑えた痕があり死因が不自然だとして板橋警察署に届け出た。

警察は赤ん坊の遺体を東京帝大(現東京大学)で司法解剖した結果、手で口、鼻をふさいで窒息させた疑いが強まり、きくを逮捕して取り調べを始めた。その結果、「この子は我が子ではなく養育料目的に引き取った子で、その後窒息死させた」と自供した。これを端緒に【殺人鬼村のもらい子殺し事件】の全容が明らかになった。

通称‘岩ノ坂‘は現在の板橋区本町から仲宿の旧中山道沿いで、中心に石神井川に架かる板橋がある辺り。今では、近くを首都高速の高架橋が建ち、地下には都営三田線が走っている都会だが、昭和5年当時はのどかな田園風景であった。だが、この岩ノ坂集落はお化けの清さん長屋、トンネル長屋など奇妙な名称がつき一般の人は寄り付かない地帯だった。

集落の住民は、きくが生業としていた念仏修行者(押しかけ物乞い)やクズ屋、よいとまけ(土木基礎固め労働)などで、所謂「乞食集落であった」。70世帯に約2000人が居たというから警察でも実態は把握できなかった。また関東大震災後に被災した身寄りの無い人達も岩ノ坂集落になだれ込み、一種の無法地帯となっていった。

−もらい子斡旋−
小川きくに対する取調べでもらい子殺しの実態が判明した。きくが殺した赤ん坊は、東京府多摩川村の女性(当時32歳)が3月9日に板橋の産院で出産した子であった。この女性は、夫が無職で自分も子育てに自信がないと漏らしているのを岩ノ坂集落の山谷こよの(当時37歳)が聞きつけ、「それなら大家の人のところに養子縁組してあげる」と騙して養育料18円(現在の20万円程度か)を受け取った。

こよのは、赤ん坊と金を同集落のよいとまけ作業員でもらい子斡旋の中心的役割をしている福田はつ(当時40歳)に渡した。はつはこの中から10円をきくに渡した。きくは赤ん坊と金を受け取った後、僅か数日後に赤ん坊を窒息死させたのだった。

警察は、福田はつを逮捕したが犯行を素直に認めている事、逃亡の恐れがない事などから一旦釈放した。だが、はつは釈放間もなくの4月17日、2歳の赤ん坊が死んだといって近所の診療所に駆け込んだ。不審を抱いた医師が警察に通報。はつは再逮捕された。

−大掛かりな実態調査−
警察、東京府は事態を重くみて岩ノ坂集落に対する徹底的な捜査を開始した。その結果、福田はつの斡旋で、きくは昭和3年から今回明らかになった事件まで4人の赤ん坊を殺し、養育料50円を横領していたのをはじめ集落の12人がもらい子殺しをしていた事が判明した。その結果、殺された赤ん坊は40人で、騙された養育料は1200円を超えた。

岩ノ坂の集落民は仲間意識が強く、横領した養育料は集落仲間と連日連夜の飲食代に化けた。一方、事情があって、泣く泣く子供を手放した母親は「子供の行く末を考えて金持ちの家に引き取られたと思っていたのに」と泣き崩れたが、世間の体裁を意識して訴えることがなかったため結局、警察は小川きくと内縁の夫の小倉幸次郎のみを起訴しただけだった。

政府は、この事件を重視。全国の子供の浮浪者や物乞いを調査した。その結果、殆どが捨て子やもらい子であることが判明。親(物乞いなどの)から切り離して施設に収容すべしと唱えたが、現在における福祉制度の充実とは程遠く救済には至らなかった。その結果、戦後間もなくの昭和23年1月におきた「寿産院・もらい子殺し事件」に繋がっていった。


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