栃木・雑貨商一家四人殺し


−経緯−
昭和28年3月17日の深夜、栃木県芳賀郡市羽村の菊池正(当時23歳)が、近所で雑貨商を営む女主人(当時49歳)宅に押し入り一家四人を絞殺した。押し入った菊池は、家中を引っ掻き回して金を探したが現金2千円しかなかった。このため腹いせに既に死んでいる女主人とお手伝いに対して死姦をするという猟奇的な残忍行為をする。更に女物の腕時計一個も盗んだ。暴行を受けた女性から精液が二種類検出されたが、菊地の自供で菊地単独犯行と認定された。

菊地は村の青年団を勤め、まじめで働き者という評判であった。しかも事件前日に婚約も決めた菊池を疑うものは無く、犯行現場に近いことから菊地の家に県警捜査本部は捜査詰め所を設けた。菊地は熱心に捜査に協力していたという。事件から一ヶ月経過したが、捜査の進展は無く迷宮入りかと思われた矢先に、菊地の油断から捜査は一気に解決に向かって行った。

菊地が可愛がっていた8歳年下の妹に盗んだ時計をあげてしまったのだ。当時、妹は東京で働いておりバレることはないだろうと思っていた。ところが、藁をも掴む思いで捜査していた捜査陣は、菊地の妹が東京で働いていることを知り、どんな手掛でもよいと聞き込みに行った。この時、刑事は菊池の妹が盗まれた時計をしているのを見逃さなかった。この腕時計が決め手となり菊地が逮捕される。

−動機とその後−
菊地は幼い頃から母親想いの優しい青年だった。母親が再婚した義父が、母子につらくあたり菊池も小学校低学年の頃から義父に「自分の食い扶持ぐらい自分で働けと」言われ、近所の農作業を手伝っていた。その母が、白内障を患い薄情な義父が治療するてだてをしなかった。このため菊池は、自分が母の病気を治すとの決意から金目当てに犯行に至ったことを自供した。

菊地は東京拘置所に収監されていた。一審、二審とも死刑判決で最高裁に上告中であった。事件から2年後の昭和30年5月頃、菊池の兄から手紙が届く。手紙には「村で母親が苦労していること。菊地が逮捕されたことで村八分になっている」ことなどが記載されていた。これを読んだ菊地は《悪いのは母親ではなく自分であること。母親をいじめないよう村の連中に説得しなければ》と思い込んだ。裁判も「死刑は免れない」と覚悟を決めていたが、最後に母親に会いたいとの一念で拘置所を脱獄することを計画。

兄に手筈してもらい拘置所の鉄格子を切断するための金ノコを入手(兄が差し入れの本の背表紙に金ノコの歯を隠し入れた)。昭和30年5月11日午後9時、菊池は東京拘置所を屋根伝いで脱獄した。常磐線で列車を乗り継ぎ、無賃乗車がバレると列車から飛び降り歩き通して兄と打ち合わせしていた山に身を隠した。その頃、警察や村の消防・青年団が大規模な山狩りを行う。

脱獄から10日目の5月21日午後11時頃、菊地は自宅に当然警察が張り込んでる事を承知していながら自宅の雨戸を叩いた。あっという間に手錠をかけられた菊地は雨戸越しの母親に「一目会わせてくれ」と土下座して懇願、刑事の計らいで母・妹に会うことができた。その間1分程度であったという。

東京拘置所を脱獄した経緯は、別の見方が今でも根強く指摘されている。それは、犯行現場から2種類の精液が発見されたこと、兄の異常なまでの脱獄への手助けである。事件当初から複数犯の見方もあり、兄が何らかの形で関わっていたのではないか?あるいは兄と事件の決着をつけるために脱獄したのではないかと今でも憶測が続いている。

昭和30年6月28日、最高裁は菊地の上告を棄却し死刑が確定した。同年11月21日、東京拘置所から仙台刑務所に移送され、その翌日の22日に死刑執行。死刑判決からわずか4ヵ月後という異例のスピードで処刑された。


ホーム

inserted by FC2 system