血のメーデー事件


−経緯−
昭和27年5月1日東京の明治公園で労働者の祭典であるメーデーが行われた。この大会に全国の労働者や学生ら15万人(推定)が参加した。大会が終了したのは午後12時頃で、その後8万人(推定)が5つのコースに分かれて都内をデモ行進した。

その内の1つ、中部コースの1群約3000人は解散予定地の日比谷公園を通り過ぎ、GHQ(連合国総司令部)がある第一生命ビル前で「ヤンキー、ゴーホーム」などと叫びながら投石をはじめた。さらに集会を禁止されていた皇居前広場に向かい二重橋付近で警官隊と衝突した。これが第一次衝突である。警官隊は放水や催涙ガスでデモ隊を阻止した。

一方、中部コースの2群約1000人は祝田橋を経由して1群と合流。南コースの1群約7000人も皇居前広場近くに達していた。これによりデモ隊は約1万人以上に膨れ上がった。

警視庁および検察庁は、デモ隊に対して騒乱罪の適用を発動。午後3時30分頃、警官隊は警棒や拳銃を構えながらデモ隊に向かって突撃を開始した。これが第二次衝突である。警官隊は拳銃を空に向かって発射し、警棒で殴りかかった。一方、デモ隊も角材や投石で応戦し現場は戦場と化した。この衝突で、東京都職員の男性(当時23歳)が警官のピストルで背中を撃たれて即死。男子学生(当時23歳)は頭を強く打って転倒し5日後に死亡した。

警察は、この衝突でデモ隊の1232人を逮捕した。検察庁は、このうち騒乱罪や公務執行妨害罪、傷害罪などで261人を起訴した。

−背景−
終戦と同時に皇居前広場は国民に開放され翌年の昭和21年5月のメーデはこの広場で開催された。それから4年後の昭和25年5月30日に開催された人民決起大会で米軍兵士と衝突したためGHQが広場の使用禁止を決定した。

翌年の昭和26年9月に講和条約が米国と締結された。メーデー実行委員会は、日本は米国(連合国)の統治から脱して主権国となったのだから、GHQの発令した皇居前広場の使用禁止は無効であるとして、広場の使用を求めた。

ところがGHQから代わって管理した厚生省(当時)が引き続き使用禁止の処置をした。そこでメーデー実行委員会は「広場の使用不許可処分の取り消し」を求めて東京地裁に訴訟を起こした。これに対して東京地裁は「皇居前広場の使用禁止は言論、表現の自由を保障した憲法21条に違反する」として使用不許可処分を取り消す判決をした。

これを不服とした政府は控訴した。この政府の対応にメーデー実行委員会は激昂した。そのような背景の中で、講和条約締結後のはじめてのメーデを迎えることになった。

−異例の長期裁判−
この「血のメーデー」は、その後20年間にわたる長期裁判になったことで世間の注目を浴びた。東京地検は、騒乱罪で逮捕した1232人のうち率先助勢者と悪質な不和随行者に絞り261人を起訴した。だが、これは首謀者のいない騒乱罪という異例な適用だった。

初公判は昭和28年2月4日。それから公判は1820回行われ昭和45年1月28日の結審まで17年も要した。判決は指導した7人に懲役7年から2年、率先助勢した68人に懲役1年半から5ヶ月、いずれも執行猶予がついた。その他18人に罰金刑。第一次衝突は罪が構成されないとして110人を無罪とした(公判中、死亡した被告を除く)。

有罪になった被告人で102人が控訴した。昭和47年11月21日東京高裁は「騒乱の共同意思が成立していたとは認められない」として現存する被告84人に無罪を言い渡した。これに対して検察側は上告を断念。実に20年の長きにわたる裁判に終止符が打たれた。


ホーム

inserted by FC2 system