力道山・刺殺事件


−経緯−
昭和38年12月8日午後11時頃、赤坂のナイトクラブ「ニュー・ラテン・クォーター」で、国民的英雄のプロレスラー・力道山(本名:百田光浩、当時39歳)が住吉連合系暴力団の大日本興行組員・村田勝志(当時24歳)に登山ナイフで刺され病院に搬送された。

力道山と村田は以前にも些細なトラブルを起こしていたが、事件当日もクラブのトイレで足を踏んだ、踏まないということから口論となり、激昂した村田は持っていた登山ナイフで力道山の脇腹を刺した。この背景には、対立関係にあった住吉連合と力道山のバックであった東声会との因縁が根底にあったとされている。

刺された力道山は脇腹を押さえながら席に戻ると、付き添いの連中の心配をよそに平然と酒を飲んでいたという。だが、それも時間の問題で、次第に出血がひどくなり車で赤坂山王病院に運ばれた。

【この日、相撲協会の高砂親方が相撲関係者を伴って力道山に面会した。相撲協会から脱会(後述)した力道山にとって、これは嬉しい出来事だった。相撲協会の幹部が自分に頭を下げて「大相撲ロサンゼルス興行」の相談に来たのだ。力道山は上機嫌で料亭に親方達を招待し痛飲したという。その後、TBSのラジオ番組は酔っ払って収録ができなかった。TBSをあとにした力道山は赤坂のニュー・ラテン・クォーターに向かったというから泥酔に近い状態だったと思われる】。

診察の結果、緊急手術が必要と判断した病院側は、聖路加病院の外科部長に執刀を要請し手術が行われた。手術は無事成功し命に別条は無いものと思われたが、12月15日の回診で腸閉塞を起こしていることが判明し直ちに手術を開始した。だが、午後9時頃から危篤状態に陥り同10時35分に死亡した。死因はショック死とされているが真相は謎のまま(遺族の希望で遺体は慶応病院で解剖された。その結果、担当医は「傷口の洗浄不備と麻酔の過剰投与が原因」と言っていた事が後年判明する)。

英雄・力道山の死は国民に驚きと深い悲しみを与えた。圧倒的な強さを誇った力道山が、錆びついた登山ナイフの一突きで死ぬなんて誰も信じることができなかった。最後の言葉は「おれは死にたくない」だったと言う。

−力道山の生い立ちと時代背景−
力道山は本名を金信格(キム・シンキョ)といい大正13年11月に朝鮮の咸鏡南道で出生した。昭和14年の「創氏改名」で、名前を金村光浩にかえて昭和15年に二所ノ関部屋に入門し敗戦の年の昭和20年に十両に昇進した。

昭和25年、関脇に昇進した力道山は突然力士を廃業した。真相は定かではないが、朝鮮人であるため大関になれない不満、番付面での不満からだと言われている。

その後、プロレス界入りした力道山は昭和29年に柔道7段の木村政彦と組み、米国の強豪レスラー・シャープ兄弟とタッグマッチを行う。敗戦から9年を経て、ようやく日本の経済復興の兆しが見えてきたものの、今だ米国コンプレックスが根底にある日本人の目には、力道山が対等、いやそれ以上の強さで米国人レスラーに空手チョップをくりだす姿に興奮した。

おりしも、この年にNHKと日テレがテレビ放送を開始。駅前の街頭テレビに映し出されるプロレス実況は、国民を完全に虜にしてしまった。一躍国民の大スターとなった力道山は同年12月、木村との「世紀の遺恨試合」を経て覆面王・デストロイヤーや噛みつき魔・ブラッシーなどの強豪レスラーと対戦し連戦連勝を誇った。

一方、力道山は本業のプロレス以外に総合レジャー施設やクラブ、マンションなどの多角経営に乗り出し「リキ・コンツェルン」を築く。さらに、昭和38年6月には、日航の国際線スチュワーデスの田中敬子さん(当時21歳)とホテル・オークラで盛大な結婚式を挙げて、この世で欲しいものは全て手中にした。その結婚式から僅か半年後に力道山は他界したのだった。

−事件の結末−
犯人が住吉連合系であり、被害側のバックが東声会という図式は大規模な報復合戦があるのではと危惧されたが、双方のトップと仲を取り持った山口組の田岡組長との3者協議で和解が成立。最悪の事態は避けられた。

犯人の村田は懲役7年の刑を言い渡されて刑期満了で出所。その後、住吉連合系の組織で村田組の組長になった。


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