暁に祈る事件(吉村隊事件)


−経緯−
昭和24年3月15日、朝日新聞に「生身のまま冷凍人間」、「同胞虐殺の吉村隊長」、「鬼畜!リンチの数々」という見出しでスクープ記事が掲載された。

内容は、ソ連(現、ロシア)に強制連行された日本軍の将兵が過酷な労働を強制され、その監督にあたった吉村という隊長がノルマ(労働基準。ロシア語)を果たせなかった同胞に凄惨なリンチを加えたとする引き揚げ者の証言だった。

この吉村隊の残忍な同胞虐殺は、前年末から始まったソ連からの引き揚げ者達から断片的に伝わっていた。だが、いずれも伝聞であり実態を証明するには至っていなかった。よって、吉村隊の存在すら怪しいとまで言われていた。

そこへ、吉村隊の過酷な労働で片腕を失った吉川厳作という元隊員がソ連から引き揚げてきた。彼は、復員後直ちに朝日新聞に吉村隊の惨劇を告白し、ついに「暁に祈る事件」として国民が知るところとなった。

−時代背景−
昭和20年に入って、日本軍の敗戦は確実となっていた。そこへ、ソ連が日ソ不可侵条約を一方的に破棄し日本に宣戦布告するとともに国境を越えて南下してきた。圧倒的な軍事力を誇るソ連軍に日本軍は撤退に次ぐ撤退を繰り返すのみであった。

そして8月15日。日本は連合国側のポツダム宣言を受諾し終戦となる。この時、海外残留邦人は650万人。その内、ソ連軍占領地に残された者150万人で、とりわけシベリア、外蒙古、ウクライナ方面の57万人が酷寒の地で肉体労働に従事させられた。

−吉村隊長の残虐−
吉川元隊員の証言によれば、熱河(中国・熱河省)から貨車に乗せられて外蒙古・ウランバートル(現在のモンゴル共和国・首都)に着いたのが昭和20年10月だった。この時から悲劇は始まった。

池田重善(当時29歳)は憲兵伍長だった。ソ連側に憲兵であったことが発覚すると戦争指導あるいは扇動の罪で死刑は免れられないと考え、吉村という偽名を使っていた。

当時、強制収容所の隊長は長谷川大尉であったが、同胞の体を気遣い強制労働には難色を示していた。このため、ノルマが達成できずソ連軍の収容所所長は苛立っていた。

そこへ、池田(吉村)が収容所所長に上手く取り入って、従来の2割増しのノルマを約束(午前4時から深夜1時までの21時間に及ぶ肉体労働)した。そのため長谷川に代わって池田(吉村)が隊長となり、隊員に過酷な労働を強制し、果たせなかった隊員には暴行、絶食などの私刑を加えた。

さらに、歯向かう隊員には−30℃以下という厳冬の夜間に、朝まで木に縛り付けるという残忍な私刑を加えたという。隊員は、ただでさえ食糧不足による栄養失調や過酷な労働で体力が衰弱しており、太陽が昇る未明には首をうなだれ、祈るような格好で死んでいった。これが「暁に祈る事件」と呼ばれる所以である。この私刑で死亡したのは30人にのぼるという。

池田(吉村)は、隊員に過酷なノルマを課す一方、ソ連軍に迎合し安全な身分保証を取り付け、豊富な食糧をエサに取り巻き連中を囲っていた。

−事件は捏造なのか?−
暁に祈る事件は、国会でも大きく取り上げられて参議院の引き揚げ委員会が、郷里の長崎県五島列島に戻っていた池田(吉村)を証人喚問した。さらに元隊員の吉川、笠原の2人は池田(吉村)を告訴した。

その結果、警察は昭和24年7月14日に池田(吉村)を逮捕監禁罪、遺棄致死罪などの容疑で逮捕した。池田(吉村)は、あくまでソ連軍の命令によるもので私刑ではなく、事実が歪曲されているとして犯行を否認した。だが、昭和33年最高裁は池田(吉村)の上告を棄却し懲役3年が確定した。

池田(吉村)は、刑期を終えて郷里で行商をしながら冤罪を訴え続けたが、昭和63年9月11日、脳内出血で長崎の病院で死去した。享年73歳。

この事件で昭和63年、弁護士やジャーナリスト達が事件の再調査を実施した。その結果、無実の可能性が大きいとの結果報告を纏めて再審請求する予定だった。


ホーム

inserted by FC2 system