北九州・4人殺害事件


−経緯−
昭和50年6月17日午後3時頃、北九州市戸畑区のアパートに住む暴力団山東組若頭補佐が同じ山東組の構成員で2ヶ月前に福岡刑務所を出所したばかりの川辺敏幸(当時30歳)にピストルで射殺された。

若頭補佐の妻が警察に急報し、ただちに付近に非常線が張られた。その直後、同区内で主婦が射殺されるという事件が発生した。2つの現場からは45口径の薬きょうが見つかり両事件とも川辺の犯行と断定された。

川辺は、主婦を射殺した後、通りかかったライトバンを停めさせて運転手をピストルで脅し小倉北区方面へ逃走し、紺屋町の繁華街で降りて姿を消した。警察は、市民も巻き込んだ殺人事件に発展したことにショックを受け、多数の警察官を動員して川辺の行方を追った。また市民も、川辺がピストルを持って逃走中であることから恐怖と戦慄がはしった。

最初の犯行から1時間後の午後4時頃、小倉北区の砂津川沿いにあるホテルに川辺は知人の女性を同伴しチェックインした。ホテルの従業員は午後11時になってもチェックアウトしないことに不審を抱き、部屋に内線電話した。すると川辺は「うるせえ!文句があるならサツに言え」と怒鳴った。これに驚いたホテル側は警察に連絡。翌18日午前0時30分頃、小倉北署員が川辺の居る部屋のドアをノックしたところ、突然銃声が響いた。

署員は部屋の中に居るのは川辺に間違いないと断定。ただちに本署に連絡し、防弾チョッキを着けた警察官約300人がホテルの周りを包囲した。投光機が川辺の居る部屋の窓をめがけて昼間のような強烈な光を照射した。これに激怒した川辺は、投光機を破壊するためピストルを撃った。警察側は、攻撃しなかったため銃撃戦にはならなかった。

午前7時15分、川辺は自殺も考えたが、結局それも出来ないまま女性と連れ立って投降した。

−4人殺害を自供−
戸畑署に連行さたれ川辺は犯行を素直に認めた。取調べに対して、若頭補佐を射殺したのは覚せい剤取引のトラブル、主婦射殺は匿ってくれなかったためだと供述した。

さらに、取調べで川辺は山東組組長の舎弟と内縁の妻を殺害したことも自白した。捜査員が川辺の供述に従って、小倉北区城野のマンションに急行し、2人の刺殺体を発見した。動機は、舎弟の妻と関係ができ、それを舎弟に知られたので2人とも脇差で刺し殺したのであった。

短期間で4人の殺害、とりわけて17日の犯行は僅か1時間の間に2人を殺害した川辺は、強盗殺人、殺人、同未遂、覚せい剤取締法違反、公務執行妨害、銃刀法違反などで起訴された。

公判で検察側は「被告は少年時代から凶悪犯罪を繰り返して、矯正の見込みは全くなく、被害者の遺族も極刑を望んでいる」として死刑を求刑した。川辺も「死刑は望むところ。できることなら、この首を遺族の人に討たせてあげたい」と告白した。

昭和52年3月10日福岡地裁小倉支部は川辺に対して死刑を言い渡した。これに対して国選弁護士は控訴手続きを取ろうとしたが、川辺は承知しなかった。弁護士は強引に控訴手続きを行ったが、その2ヵ月後に川辺は自身で控訴を取り下げる申立書を提出し受理された。その結果、川辺に死刑が確定した。

その申立書には「このうえは、一日も早く、死者の御霊に詫びる為、自ら苦境に身を置く事こそ、陳謝の意に叶う気が致しますので、早速控訴取り下げを致したようなわけであります」と書かれていた。昭和53年死刑執行。


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