山口組・田岡組長狙撃事件(大阪戦争)


−経緯−
昭和53年7月11日の夜、京都市内のナイトクラブ・ベラミで日本最大の広域暴力団、山口組の田岡一雄組長(当時65歳)は大日本正義団の鳴海清(当時26歳)に狙撃された。田岡組長は一命を取り留めたものの、銃弾が頸部を貫通し全治2ヶ月間の重傷を負った。

数日後、周囲の英雄視に気を良くした鳴海は田岡組長宛てに挑戦状を書いた。これが、夕刊に掲載されたため山口組の怒りは頂点に達し、鳴海捜しは全国規模で展開された。

その結果、反山口組連合の中核団体で大日本正義団とつながっている松田組系組員7人が殺された。更に同年9月17日、鳴海の死体が六甲山中で発見された。白骨化した体にはガムテープが巻き付けられ、脇腹には数ヶ所の刺傷、前歯は欠けて、爪や男根が無く壮絶なリンチの痕跡は明らかだった。

10月8日、警察は松田組系で兵庫県にある忠誠会の幹部と組員ら3人を鳴海隠蔽容疑で逮捕した。この取調べで驚くべき供述を得た。というのは当初、鳴海を殺害したのは山口組と思われていたのだが、実は逮捕した忠誠会の3人が鳴海を殺害し死体を六甲山中に遺棄したと自供したのだった。動機は山口組の追及が烈しく、鳴海を匿うことに持て余したということだった。

だが、3人の供述には食い違いが目立った。また、公判も平成2年9月に殺人に関しては全員無罪となり、逮捕監禁罪、同幇助罪で有罪とされた。よって、鳴海殺害の実行犯は謎のままとなっている。

−大阪戦争の発端−
田岡組長が狙撃された事件を中核に、大阪戦争と言われた発端は昭和50年7月26日にさかのぼる。この日、大阪府豊中市の飲食店で反山口組の松田組系溝口組の組員が、山口組系佐々木組の組員が賭場で嫌がらせを続けていることに激怒し、3人を射殺し1人に重傷を負わせた(豊中事件)。

佐々木組は報復のため、松田組の背後で指揮していた大日本正義団の初代会長・吉田芳弘を浪速区日本橋の路上で射殺した。その後、山口組員による松田組樫忠義組長宅への発砲があり、大阪戦争の幕開けとなった。

一方、大日本正義団の吉田会長を敬愛していた鳴海は、遺骨の一片をお守り袋に入れて田岡組長への復讐を誓った。犯行後の山口組の追及をかわすため本妻と愛人に別の安心できる居場所を用意して転居させた。その後、田岡組長への張り込みを続けて、ついにクラブ・ベラミで狙撃したのだった。

昭和53年11月、山口組、松田組の双方が一方的に抗争終結宣言を行って豊中事件から40ヶ月に及んだ戦争に終止符を打った。手打ちのない抗争終結は異例だった。だが、松田組は一連のダメージが尾を引いて5年後に解散に追い込まれていった。山口組は、さらに強固な組織へと発展していくが、やがて田岡組長の死後、ポスト争いで一和会との抗争へと繋がっていった。


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