福岡事件


−経緯−
昭和22年5月20日午後7時過ぎ、福岡県福岡市の国鉄(現、JR)鹿児島本線沿いの工業試験場付近で、ヤミ物資である軍服の取引を持ちかけられた中国人を含む2人のブローカが拳銃や匕首、日本刀などの凶器で殺害された。この犯人として、元芸能社社長の西定雄(当時33歳)、知人の石井健治郎(当時31歳)ら7人が逮捕された。

福岡高裁の判決文を要約すると、昭和22年5月上旬、西は夏物軍服の見本を日本人ブローカのAさんに渡して、中国人の衣類商Bさん(当時40歳)ら中国人5人に売りつける仲介を依頼した。

更に西は元社員のXに計画を打ち明けて、拳銃の入手を指示した。そこで、Xは暴力団抗争に巻き込まれ自衛のため拳銃が必要と友人、知人の伝手を介して石井から2丁の拳銃を5万円で入手した。

計画の準備が整ったところで、西は石井らに計画を打ち明けて共謀することを要請した。これを了解した石井らは仲間と共に犯行に加担した。

犯行当日、西は中国人5人を飲食店に呼び出し、軍服代金の70万円を用意させた。手付金10万円は入手したものの、残金の60万円は現物を見ないと支払えないと中国人Bさんは拒否した。そこで、西は日本人ブローカAさん、中国人Bさんを受け渡し場所へ案内すると言って工業試験所付近へ誘い出した。現場で潜んでいた石井は2人に向けて拳銃を発射した。倒れた2人にXは匕首、他の1人は日本刀で切りつけて死亡させた。

2人を殺害してから西とXは飲食店に戻り、Bさんの帰りを待っている中国人ブローカ4人に「無事、物をBさんに受け渡した」事を告げて、残金の60万円の支払いを要求した。だが、中国人ブローカ達はBさんが戻るまでは支払いはできないと拒否した。この結果、西は残金60万円の奪取は無理と判断し、手付金10万円を持って逃走した。

昭和23年2月27日福岡地裁は、西と石井に死刑、Xに懲役15年、他2人に同6年、同5年、1人に無罪を言い渡した。昭和26年4月30日福岡高裁は1人を無罪にしたが、西と石井の控訴を棄却。昭和31年4月17日最高裁は2人の上告を棄却して西と石井に死刑が確定した。

−冤罪か−

この事件で、冤罪を信じて救援活動を展開した熊本県の立願寺住職で元教戒師の古川泰龍氏は、昭和38年9月「福岡誤殺事件真相究明書」を出版した。この頃、全国で殺人と詐欺を繰り返していた凶悪犯・西口彰(連続強盗殺人事件)が弁護士を装って冤罪を支援すると言って古川氏宅へ訪問してきた。これを見た古川氏の娘が、全国指名手配されている西口に似ていると交番に届け出て、西口が逮捕された。皮肉にも、このことで「福岡事件」が全国に知れ渡った。

古川氏が指摘する通り、福岡事件は冤罪の色が強いと言われている。@凶器は3種類。2〜3人の犯人が複数の凶器を使い分ける理由はなく、現場の状況は色々な凶器を持った多数の人間が『乱闘』したものと見るのが自然である。A判決は強盗目的の計画殺人としているのに、殺された被害者の所持金5万円は勿論、何一つ奪われていなかった。B終戦直後であり、戦勝国となった中国人達が法廷に押しかけて「全員を死刑にしろ」と騒ぎ出した。このような状況が判決に微妙な影響を与えたのではないかという指摘。

西は、軍服の取引は認めているが強盗殺人の計画は事実無根と主張し続けた。石井も強盗殺人は完全に否定し、2人を射殺(誤射)したのは乱闘によるもので、頼まれたからとか、誰かと相談したからというものでは無いと主張した。警察は、計画的な強盗殺人と断定し、西、石井は強盗目的ではなく乱闘事件だったと主張したのだ。

昭和56年6月、法務省は突然、石井に恩赦を与えて無期に減刑。だが、同時に西の死刑を執行した。事件から29年も経ってからの唐突な執行の理由は不明である。

平成元年12月8日、石井は服役中の熊本刑務所を仮出所した。拘禁期間は実に42年7ヶ月。帝銀事件の平沢貞通死刑囚の38年8ヶ月を超え、史上最長であった。

西は、最後まで強盗殺人ではなかったと訴え、「叫びたし、寒満月の割れるほど」と最後の詠を残して刑場の露と消えた。


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