会社員バット殺人事件


−経緯−
昭和48年9月3日午後7時頃、東京・丸の内に本社がある世界有数の商船会社で残業中だった山上信男課長(当時49歳)は部下の青山建夫(仮名、当時28歳)にバットで一撃され即死した。

その後、青山は「課長を殺しました」と麹町署に出頭。麹町署は、すぐに管轄の丸の内署に連絡。丸の内署の係官が商船会社の現場に急行し山上課長の死体を発見した。

青山の身柄は丸の内署に移され、取り調べが始まった。青山は、そこで取調官に「課長が憎くてたまらなかった。課長のやること、なすことが我慢できなかった。会社のためにも、いないほうがいいと思った。」と犯行の動機を自供した。

−エリート社員の精神分裂−
青山は東京都墨田区で出生。父親は中学校校長で地元では裕福で知識階級の家庭だった。このため、近所では青山を坊ちゃんと呼んでいた。

青山は地元の名門高校に進学したが、その頃から精神分裂の兆候があった。高校時代の友人は「彼は、自分の家が豊かであるが故に、みんなに嫉妬されていると思っていた。いつか近所の人から襲われるのではないかと不安がっていた。革命がおきて、貧しい人達に殺されるという妄想に悩んでいたようだ」と証言した。

その後、一橋大学を昭和45年に卒業した青山は、商船会社に就職した。だが入社2年目の時、ノイローゼで約2ヶ月間入院し退院後も6ヶ月間休職をした。

症状も良くなって昭和48年4月に復帰した青山は、会社の配慮で負担が少ない株式課に配属された。この部署は温厚で苦労人として評判がよかった山上課長と女性3人の小所帯であった。

山上課長は青山が心の病であることを理解して、心優しく接した。だが、青山は完全主義者で、思い込みが激しく、一旦言い出すと自説を絶対に曲げなかった。その結果、他部署とのトラブルが頻繁に起った。更に、直接の上司である山上課長にまで意見が違うと言って殴りつけたこともあった。

同年4月末の日曜日、青山は山上課長の自宅に電話をかけた。興奮した声で「課長、明日殺すから必ず出てきてくれ」という内容だった。山上課長は月曜の朝、このことを上司に報告した。上司は青山を呼び、事の真相を問いただした。だが、すっかり興奮が収まっていた青山は素直に詫びて職場に戻った。

それから半年後の同年9月3日、山上課長と青山の2人で残業していた午後7時頃、青山はロッカーからバットを持ち出して山上課長の頭部に全身の力を込めて一撃したのだった。

逮捕された青山は精神分裂症と診断され不起訴になった。2人の子供を残して、無残にも殺された山上課長の遺族には何とも言いようの無い結末となった。


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