山口組・一和会抗争事件


−経緯−
昭和59年6月5日、日本最大の広域暴力団「山口組」は4代目組長に若頭の竹中正久(竹中組組長)が襲名することを直系組長らに披露した。これに対して組長代行の山本広(山広組組長/山広)は反発し、同月13日に記者会見で゛襲名は認められない゛として山口組との脱退と新たに「一和会」結成を宣言した。

山口組は3年前の昭和56年に裏社会のドン、3代目山口組長・田岡一雄が死去。4代目組長に内定の山本健一(山健)が服役中に病死していた。この時点で、構成員1万3000人の国内最大組織である山口組の分裂危機が芽生えていた。

山健の死後、組の運営は若頭補佐の山広が組長代行、同じく若頭補佐の竹中が若頭にそれぞれ昇格し、他の6人を加えた8人の最高幹部によって行われた。昭和58年、山広は組長不在では組の勢力が減衰するとして入り札(選挙)による4代目組長決定を提案した。

これに対して竹中は猛反発をした。当時、組織内のバランスは武闘派の竹中より穏健派の山広に傾いていたため、入り札になれば山広が有利だと見られていたからだった。

そこで、神戸の小さな組織だった山口組を戦後、日本最大の広域暴力団に育てた田岡組長を陰から支えていた文子未亡人が動き出した。文子未亡人は、「入り札によって組が分裂したら死んだ父ちゃんに会わせる顔がない」と言って、互いに話し合いをするよう要請した。

ところが、その後になって文子未亡人は「お父ちゃんは生前、俺の跡目は山健、山健の下の若頭は竹中や、と言っていた」と関係者に言い出した。この発言の影響力は大きく昭和59年6月5日、山口組定例会で竹中の4代目襲名を披露したのだった。

−死者25人の大戦争勃発−
山広が山口組を脱退した時点での勢力は山口組は約4700人、一和会は約6000人と一和会が有利であった。ところが、一和会に付いた組は山口組の紋章が無くなると途端に稼ぎが激減した。一方、山口組も一和会に付いた組に対して説得を続けた結果、分裂1ヵ月後には山口組約8000人、一和会約4000人と勢力は逆転し、翌60年には山口組10400人、一和会2800人になっていた。

一和会は、このままでは、会は壊滅する。これを打破するには竹中組長の暗殺以外にはないと決意し山広組行動隊を組織した。昭和60年1月26日、8人の行動隊は竹中組長のマンションに張り込み、ロビーで射殺した。ボディガードの2人は即死、竹中組長は翌日病院で死亡した。

これに激怒した山口組は一和会に対して報復攻撃を始めた。その結果、317件の抗争を起こし25人が死亡(山口組8人、一和会17人)、70人が負傷した。この後、一和会は解散し山口組は更に勢力を増していった。


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