鹿地事件


−経緯−

昭和27年12月6日、作家・鹿地亘(かじわたる/本名:瀬口貢/当時49歳)の妻から社会党代議士・猪俣浩三へ「鹿地の捜索願い」を申し入れた。そこで猪俣は国警、最高検、人権擁護局などに事件の究明を申し入れた。鹿地は前年の昭和26年11月25日午後7時頃、神奈川県藤沢市鵠沼(くげぬま)で転地療養していた自宅から散歩のために外出。その後行方不明となっていた。ところが、その届出の翌日7日、鹿地は約1年振りに自宅に戻ってきた。

−鹿地の経歴−
鹿地は明治36年に鹿児島で出生。東大を卒業後プロレタリア作家同盟に加入。戦前、特高からの左翼弾圧で二年間入獄後、昭和11年中国へ渡る。中国では魯迅と出会い執筆活動を続ける。日中戦争が拡大する中、鹿地は抗日宣伝活動としての反戦同盟を結成した。終戦後、日本に帰国し作家活動を続けていた。

−拉致の経緯−
鹿地が後に衆議院法務委員会で証言した経緯は次のような内容だった。
鵠沼を散歩中、軍用車から降りてきた米軍人に突然殴り倒されて拉致された。最初に東京・本郷にある岩崎別邸(通称:岩崎ハウス)の米軍諜報・キャノン機関に監禁された。更に11月19日川崎の諜報機関の施設に移送され監禁状態が続いた。

鹿地は病弱であったため日本人の監視役兼世話係りの山田善次郎が鹿地の面倒を見ていた。鹿地は監禁中、2回の自殺を図っていた。いずれも失敗したが、山田は鹿地を不憫に感じ、日本人同朋として内密で鹿地の家族に連絡をとった。この連絡を受けた鹿地の妻が前述の通り猪俣代議士に届け出た翌日、鹿地は米軍のジープに乗せられて青山の神宮外苑付近で降ろされた。そこで鹿地はタクシーに乗って新宿区下落合の妻宅に戻ってきたのだった。

−謎−
監禁中、キャノン中佐からソ連のスパイではないかと疑われ執拗な尋問(拷問も辞さないと発言された)を受けた。この尋問で鹿地はキャノン中佐から虚偽内容の供述を書くことを強要された《この供述書は三橋某に情報を渡した内容が記載されていた》。さらにキャノンは米国側のスパイになることを強要した。

鹿地は中国の抗日活動時代に米国の諜報機関と関係していたが、戦後ソ連側のスパイ活動をしていると見た米国が激怒。このため鹿地を拉致監禁したとの噂もあった。が、何故米国の諜報機関が鹿地を拉致したのかは今だに明確になっていない。

鹿地が供述した「虚偽の供述書」に出てくる三橋正雄が12月10日警察に自首してきた。三橋は鹿地と連絡をとっていたことを自供する。警察が三橋の自宅を家宅捜索した結果、アンテナ・送受信機などの機材が発見された。このため鹿地と三橋は電波法違反で起訴されることになったが、昭和44年7月鹿地に無罪が確定した。

当時の米ソ冷戦の中、スパイ活動が日本で活発だったことが明るみにでた事件だった。それにしても、鹿地の場合、山田善次郎の告発がなければ闇に葬られていたかもしれなかった。
 
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釈放された鹿地(中央) キャノン機関のキャノン中佐 キャノンの上司・ウィロビー少将


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