東京・女性連続殺人事件


−経緯−
昭和43年7月12日深夜、東京都新宿区三光町の飲み屋で洋服仕立て業・高橋正彦(当時28歳)は店の女将(当時48歳)と交渉した結果、店の二階で性的関係をもった。その後、午前8時30分頃、高橋は突然、女将の腹部をナイフで刺した。

女将の大声で、高橋は一目散に逃走した。だが、隣のバーテンや近所を歩いていた学生が高橋を追いかけて取り押さえ、後から駆けつけてきた警察に身柄を引き渡した。女将は、全治3週間の重傷を負った。

四谷署は、高橋を傷害容疑の現行犯で逮捕し取り調べを始めた。高橋は10代の頃、青森県弘前市で7歳になる幼女を悪戯目的で殺害し懲役15年を言い渡されて服役した前科があった。このため、余罪もあるとみて警察は高橋を厳しく追及した。

−連続切り裂きジャック−
警察は、高橋に前年の昭和42年8月2日におきた浅草・飲食店の女将(当時41歳)刺殺事件と翌年の昭和43年1月1日、渋谷の連れ込み宿で小料理屋の女性(当時34歳)が97ヵ所を刺され、腹には十文字に切り裂かれて内蔵が引き出されていた殺人事件との関連を追及した。その結果、観念した高橋は浅草、渋谷の両事件も自分の犯行であることを自供した。

−マザーコンプレックス−
高橋は昭和15年に樺太(現、サハリン)で出生、3歳の時に旅館経営者の養子となった。終戦間もなく養い親が不仲となって高橋は養父に引き取られた。養父は厳格で嫌いだったが、養母は優しく接してくれて大好きだった。この養母との別れが高橋の人格形成に大きく影響した。

養父の仕事の関係で稚内、旭川、留萌、弘前など転々と渡り歩いたため、転校先でも友人はできなかった。高橋は「養母は何故自分を捨てたのか」と思い悩む。この頃、高橋は犬や猫を殺したり海に投げ込んで遊ぶようになった。

幼女殺害事件で服役していた高橋は昭和41年に仮出所した。服役中に勉強した服の仕立て技術を活かそうと東京・文京区の洋服店に就職した。店の主人や同僚は一様に高橋を大人しい真面目な青年と見ていた。

取調べに対して、高橋は「私は酒を飲むと不能になる。渋谷の時には、若いのにおかしいわと嘲笑され、憎さが高じて、乳房をえぐったり、体を斬り付けた。浅草の事件も馬鹿にされたからだ」と供述した。

高橋の弁護人は、「頭も良いし(知能指数108以上)、真面目。だが、女性に関しては極端なマザーコンプレックスで、犯罪に結びつく危険な人物。惰性欠如性精神病質者(感情が無い)と鑑定されたが、死刑判決でも無表情だった」と述べ、さらには「日本犯罪史上稀に見る危険極まりない犯罪者」と言わしめた。

昭和44年10月末、東京地裁は高橋に死刑を言い渡し、上告はせず死刑が確定。昭和47年8月死刑執行。


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