テルアビブ空港襲撃事件


−経緯−
昭和47年5月30日、日本赤軍の最高幹部・奥平剛士(当時27歳)と安田安之(当時25歳)、岡本公三(当時25歳)の3人はパリ発ローマ経由のフランス航空機でイスラエルのテルアビブ空港(現、ロッド空港)に着いた。3人は税関で受け取ったスーツケースから自動小銃と手榴弾を取り出し、イスラエル警備隊に向けて銃を乱射し、手榴弾を航空機に向けて投げた。その結果、民間人を含む24人が死亡し、72人が重軽傷を負った。

奥平と安田は手榴弾で自爆死し岡本はイスラエル警備隊に逮捕された。地獄絵図と化した空港内はメチャクチャに破壊され、床は地の海。その上で何十人もの人達が倒れて助けを叫んでいた。

−日本赤軍の誕生−
新左翼の共産主義者同盟(第2次ブント)赤軍派は昭和44年秋頃からテロ活動を開始した。彼等は「軍隊を形成し銃や爆弾での武装蜂起によって革命を起こす」ことを目的に結成されたテロ組織である。

同年11月に山梨県大菩薩峠での軍事訓練を警察に察知され53人が逮捕された。昭和45年3月10日には最高幹部で議長の塩見孝也が逮捕され赤軍派は大打撃を受けた。

この窮地打開のためP(ペガサス作戦=塩見議長と捕虜交換するための要人誘拐計画)、B(ビースト作戦=海外根拠地設営作戦)、M(マフィア作戦=資金調達のための金融機関襲撃)を計画した。

B作戦では、キューバの革命を教本として同国で軍事訓練を受けようと赤軍派国際部長の京大生・小俣昌道が渡航した。だが、交渉の機会は得られず帰国。この報告を聞いた赤軍派軍事委員長の田村高麿(当時27歳)はキューバ行きを諦めて、北朝鮮で軍事教育を受けることを決意。日航機を乗っ取り北朝鮮へ不法入国した「よど号ハイジャック事件」。

一方、赤軍派政治局員の重信房子は日本国内で武力闘争を遂げることは不可能と判断。また、連合赤軍の「あさま山荘事件」で革命戦士同士の殺人に憤りを感じて連合赤軍と決別した。そこで、京大全共闘の一匹狼で京大生の奥平に目をつけてアラブゲリラとの連携で革命を起こすことを決意した。

だが、重信は公安にマークされているため渡航が出来ない。そこで二人は結婚し重信は奥平房子という新しい戸籍をもうけてレバノンのベイルートに入国。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と連携をとった。その後、2人は京大生・安田、鹿大生・岡本、会社員・丸岡修(当時24歳)らをベイルートへ呼び出し軍事訓練を受けさせた。

−サベナ航空ハイジャック事件が背景に−
昭和47年5月8日、PFLPはサベナ航空機をハイジャックしてイスラエルのテルアビブ空港に強制着陸させ、逮捕されている同志解放を要求した。だが、イスラエル側は要求を一切無視して強硬手段に出てPFLPのゲリラを射殺した。

そこで、PFLPは報復としてテルアビブ空港を襲撃することを計画した。だが、アラブ人では空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難であった。そこで、PFLPは日本赤軍の奥平に協力を依頼したのだった。奥平は安田、岡本と相談し、真の世界の革命戦士のあるべき姿を見せ、理想に殉じようと決意した。

−オリオンの三ツ星−
逮捕された岡本はイスラエルの法廷で職業を聞かれた際、私の職業は赤軍兵士です、と言ってから、さらに「我々3人は、潔く死んで、オリオンの三ツ星になりたいと思った」と供述した。

この事件で岡本をはじめ死んだ奥平、安田ら日本赤軍はアラブでは「英雄」として位置付けられた。その後、日本赤軍は昭和48年の日航ハイジャック事件、昭和49年シンガポール・シェル石油襲撃事件、クェートに日本大使館占拠事件、ハーグ仏大使館占拠事件、昭和52年のダッカ事件などを起こした。

昭和60年に岡本は捕虜交換で日本赤軍に戻ったが、レバノンで逮捕され平成12年に刑期を終えた。日本政府は引渡しを要求したが、アラブで英雄の岡本に対して政治亡命を認めた。

この間、世界情勢も一変し日本赤軍の活動は壊滅状態となった。最高幹部の重信房子は偽名パスポートで日本に入国していた平成12年11月18日、大阪府高槻市でマークしていた公安当局に逮捕され終焉を迎えた。


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