杉並少年切り裂きジャック事件


−経緯−
昭和39年12月21日、都内を恐怖に陥れた切り裂きジャックが警察の取調べで犯行を自供した。この切り裂きジャックは都立高校2年生のA(当時17歳)で、都内杉並区の比較的裕福な家庭の長男だった。

事件は昭和38年3月14日を皮切りに、幼児や小学生ら十数人がナイフで切られる事件が続いていた。被害にあった子供達は、ズボンを脱がされ局部を根本から切断されたり、顔や下腹部を12針も縫う大怪我を負った。

警察は懸命の捜査を続けていたが、被害者が幼いこともあり犯人の人相、容姿が明確にならなかった。だが、いずれも共通しているのは15歳から20歳ぐらいの男で、水色の自転車を乗っていたという情報だけだった。

同年8月28日に杉並区で小学5年生が顔を切られ、9月3日には中野区で小学6年生が耳と首筋を切られた。東京と近隣の埼玉県和光市でも同様の事件が発生し、PTAでは登下校のパトロールをするなど都内や近県は監視活動を展開した。

犯人を逮捕できないまま、翌年の昭和39年10月10日、中野駅交番に野方警察署長宛ての脅迫状が届いた。内容は「前ニ 予告 シタヨウニ 634ノ4(注:武蔵野市)ノ オリンピック 開会式中ニ 実行シタ 切りサキ ジャック ヨリ」と記載されていた。確かに、この日は東京オリンピックの開会式で、武蔵野市の市営球技場で小学3年生が刃物で腹を切られて腸が飛び出す重傷を負った事件が発生していた。

更に、当日の午後2時40分頃、荻窪駅北口の交番脇に大学ノートが落ちていた。警察官が拾って確認したところ、男の裸体の下腹部に刃物を突きつけている絵が貼り付けてあり、四隅には「松田」という割り印が押してあった。

−犯人の動機とは−
捜査本部では、脅迫状と落ちていたノートは犯人の物と断定し捜査を開始した。そして5日後、大学ノートの出所が判明した。このノートの表紙には音楽部レコード台帳と記載してあったため、警察は付近のレコード店を徹底的に調べ上げた。その結果、このノートは昨年の夏休みに杉並区立第9小学校で盗難にあった松田校長の印鑑とともに盗まれたものと分かった。

そこで、警察は杉並区立第9小学校の同窓生に的を絞って調査を開始した。対象者は卒業生623人を含めて付近の非行歴のある少年など1500人あまり。その内、今まで警察に届いた脅迫状13通で、英文の関係代名詞を使っていることから高校レベルの学力があるとみて、中学3年生から高校3年生を捜査の対象に絞った。

その結果、都立高校2年生のAが浮上。捜査官がAの家宅捜査をしたところ、部屋から「松田」の印鑑、脅迫状の下書きなど決定的な証拠が発見され補導した。

Aは事情聴取で、はじめて事件を起こした昭和38年3月14日は高校入試の合格発表の日で長い受験勉強から解放され、無性に暴れたくなり新聞に載るような大きな事件を起こしたかったと供述した。

Aは普段から無口で内向的な性格だった。友人も少なく、学校から帰ると部屋にこもったままだった。その後の取調べでも、何故犯行に及んだのか自分自身にも分かっていない様子だったという。


ホーム

inserted by FC2 system