山口判事・餓死事件


−経緯−
昭和22年10月11日東京地方裁判所の経済統制担当・山口良忠判事(当時34歳)が、ヤミ食糧を拒絶して餓死した。死後20日余りたった11月4日、朝日新聞が「食糧不足が生んだ英雄」とスクープ記事を掲載した。内容は「今こそ、判検事は法の威信に徹しなければならぬと、ギリギリの薄給から、一切のヤミ(食糧)を拒否して配給生活を守った」と書かれていた。

終戦から2年を経た昭和22年頃は、今だに食糧難で国民全体が餓えていた。このため、国からの配給では満足に食べられず、都会の人達は東京近郊や郊外の農家に食糧を買出しに押しかけていた。

一方、政府は米、味噌、醤油、酒など殆どの食糧は「食糧統制法」の下、徹底的な管理をしていた。折角、農家から米(ヤミ米)を入手しても、列車や道路で警察官に発見されると没収される時代であった。そのような時代背景にあって、山口判事は「自らヤミ食糧を取り締まる立場であり、自分がヤミ食糧を購入し食することは許されることではない」と一切のヤミ食糧を拒否したのだった。

―苦悩の末の決断―
山口判事は妻の矩子さんに「経済犯を裁くには、その人達が罪に落ちる直前の苦しみ、立場に立たないと正しい裁きはできない・・・これから僕の食事は必ず配給だけで賄ってくれ」と話した。

以降、同僚判事達が密かにヤミ食糧を食していることも無視して、ひたすら配給生活を続けた。この頃の配給米は1日・二合五勺であったが、遅配も10日前後は当たり前であった。この間、妻の実家から食糧の差し入れも一切拒否し裁判所での勤務を続けた。

だがこの当時、ヤミ食糧買いの検挙者は増える一方で、山口判事は1日で100件を超える審理と処理に追われていた。山口判事の栄養失調は危険な状態となり同年8月27日東京地裁の階段で倒れた。その後、病状を回復させるだけの体力は無く、10月11日息を引き取った。判事の立場であれば、いかようにも食糧を買えたかもしれない。だが、山口判事は自らの職業的倫理観に従って死を選んだのだった。


ホーム

inserted by FC2 system