江津(ごうつ)事件


−経緯−
昭和37年12月4日、島根県江津市郷田の紙料会社の工場廃棄場から無職のAさん(当時54歳)の死体が発見された。Aさんは、片足が義足であったが、電線外皮で両足を縛られ、外側をコモで包まれていた。頭部は鈍器で殴打された痕があった。

Aさんは、この年の10月上旬に行方不明になっていた。江津署は事件に巻き込まれた可能性があるとみて捜査を開始した。やがてAさんの親友である同市郷田の後(うしろ)房市(当時53歳)が捜査線上に浮上し、江津署は後を別件逮捕した。その取調べ中、江津署に匿名の電話がありAさんの死体を発見したのだった。

警察の調べでは、「後はAさんから借金をしており、その借金の返済を迫られていた。そのため、10月8日夜、死体発見の現場に誘い出し鉄製の熊手で顔を数回殴打して殺害し死体を埋めた」というものだった。これに対して、後は犯行を全面否認した。

昭和41年2月松江地裁は後に無期懲役の判決を言い渡した。後は控訴したが、昭和46年1月広島高裁松江支部は「凶器はクワ、ガンヅメ(鉄製熊手)またはこれに類する鈍器」と訂正し、状況証拠から改めて無期懲役の判決を言い渡した。この判決は、一審で認められた凶器(鉄製熊手)が二審で消えたため「凶器なき殺人」としてマスコミに報道された。

−殺害翌日に生きていた被害者?−
昭和47年9月、江津市の隣町の温泉津(ゆのつ)町の理容師(当時50歳)が、「10年前に義足の男とバスに乗り合わせた。男は広島から江津に引越してきて、江(ごう)の川で魚釣りしていると話していた。店の定休日は月曜だが、当日は温泉祭りだったので翌日にずらしたからよく覚えている。あれは10月9日だった」と証言した。さらにもう1人、同日にAさんを見かけたという人物が現れた。

検察側の主張は10月8日に後はAさんを殺害したとしている。翌日の9日にAさんが生きていたとすれば、判決は根底から崩れることになる。弁護団は、懸命に当時の状況を再調査した。

だが、昭和48年9月最高裁は後の上告を棄却し無期懲役が確定した。広島刑務所で服役していた後は冤罪であることを訴えて再審請求の手続きをとった。その後、真犯人を知っているという人物から「凶器は鉄製火かき棒」であるという証言が大阪市大・法医学の助川教授の鑑定でも合致した。新証拠として再審請求の柱としたが、昭和54年9月に再審請求を棄却されている。平成3年8月、無実を訴え続けた後は病死したため、真実は闇に葬られた。


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