天城山心中事件


−経緯−

昭和32年12月10日静岡県伊豆半島の天城山で若い男女の死体が発見された。地元警察が現場検証したところ、死体は2人ともピストルで頭を撃ち抜かれていた。遺品から男性は学習院大学2年生の大久保武道さん(当時20歳)で女性は同級生で元満州国皇帝・溥儀(ふぎ)氏の姪で愛新覚羅慧生さん(えいせい・当時20歳)であることが判明、2人の関係や状況から心中と断定された。

慧生さんはラストエンペラーで有名な愛新覚羅溥儀の弟で溥傑(ふけつ)氏と日本の華族である嵯峨公爵家の長女・浩さんとの間に生まれた。出生した昭和13年頃は以前からの日中戦争が泥沼化し世界各国から満州国を中国に返還し関東軍の早期撤退を要求されていた。このような時代背景もあり慧生さんの誕生は「日満親善のシンボル」とうたわれた。

昭和20年8月15日、日本の敗戦とともに伯父の溥儀氏はソ連(現ロシア)のハバロスク収容所から中国の戦犯収容所に移管された。父である溥傑氏はその後行方不明であった。母親の浩さん、慧生さんは日本に帰国して横浜の嵯峨邸に身を寄せた。

10年後、慧生さんは中国共産党の周恩来首相に行方不明の父との再会を願う手紙を出した。そして、ついに父・溥傑氏から「一緒に暮らそう」という手紙が慧生さんのもとに届いた。心中事件は一家が再会を夢見た矢先の悲劇だった。

−動機−
武道さんと慧生さんは前年の秋頃に知り合った。武道さんは鉄道会社の重役の長男で文京区の学生寮に下宿していた。2人の交際は嵯峨家に反対されながらも密かに続けられていた。だが、武道さんは父親の女性関係で相当悩んでいて「自分にも不純な血が流れている」と塞ぎこんでいた。これに同情した慧生さんは、このまま交際を続けていても結婚の望みは無く、心中することを決意した。

慧生さんの左の薬指には婚約指輪がはめられ、口紅は鮮やかで武道さんの左手を枕に眠るように死んでいた。頭のそばには2人の爪と髪が白紙に包んで埋められていた。

遺体は三島で荼毘に付された。霊柩車を手配した嵯峨家に武道さんの母親は「武道も一緒に乗せてあげてください」と涙ながらに訴え、遺骨は一緒に送られた。


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