三井三池(みいけ)炭鉱争議


−経緯−
昭和35年3月29日福岡県大牟田市で三井鉱山の合理化案に猛反対していた三井炭鉱労働組合連合会・三池炭鉱(三川、四山、宮浦の三鉱)労組(以下便宜上、第一組合とする)と会社側が組織した三井新労組(以下便宜上、第二組合という)が全面衝突した。

この日、第二組合は三池炭鉱や港湾施設の前でピケを張っていた第一組合を排除して強制就労しようとしたため流血の惨事となった。特に、同日午後4時30分頃、四山鉱山正門前でピケ中の第一組合員の久保清さん(当時32歳)が第二組合に混じっていた暴力団の組員に短刀で刺されて死亡。組員は同日逮捕された。

事態は一企業の労組問題から炭鉱業界全体の問題として発展。日本炭鉱労働組合が事態を収集しようと斡旋に乗り出したが決裂。一方、福岡地裁は会社側が申請していた三川鉱のホッパー(石炭の出荷までのタンク)やその他の施設に対しての妨害排除、立ち入り禁止の仮処分を決定した。この結果、5月12日ピケを張っている第一組合を排除しようと介入した警官隊と衝突。第一組合、警察双方で180人の負傷者が出た。

7月7日、闘争のシンボルとなったホッパーで長期ピケを張る第一組合と第二組合が再び衝突。300人以上の負傷者がでた。これを受けて福岡地裁は両者に和解案を提示したが決裂。一方、総評は大牟田市で10万人集会を開催し、支援するため大牟田市に続々と入ってきた全学連やオルグ団が第一組合に合流。1万人がホッパー前でピケを張った。

この事態に労働大臣(当時)が調停に入るなど様々な施策提案をしながらようやく収束の方向が見えてきた。中でも「離職者の完全失業対策」などの条件が労組側に受け入れられて、両者が生産協定に調印したのが10月29日だった。だが、第一組合が全面ストを解除して就労したのは12月1日。1月25日のストライキ開始から実に282日間に及ぶ争議に終止符を打った。

−争議の発端−
戦後の復興において「産業の米」、「エネルギー源」として主役の座を占めた石炭は昭和25年6月に勃発した朝鮮戦争の特需がピークだった。昭和30年代に入り、あらゆる産業のエネルギー源は石油に代わり、石炭の需要は年々減少していった。

この状況は会社の経営を圧迫していった。そこで、三井鉱山は昭和34年8月、三井炭鉱労働組合連合会に対し六山(三池、田川、山野、砂川、芦別、美唄)の炭鉱で6000人の希望退職者を提案した。組合側は、この提案を到底受け入れることは出来ないと激昂。これが発端で大争議に展開していった。

組合側は毎週火曜、金曜に24時間ストライキを決行。これに対して会社側は三池炭鉱(三川、四山、宮浦の三鉱山)の労組幹部などを対象に1500人にのぼる指名退職勧告状を発送した。

激怒した三池労組は翌年の1月25日から全面ストライキに突入。前述の通り、1人の死者と500人余りの負傷者を出す大争議となっていった。大牟田市も炭鉱で栄えた街として会社側に付く人、組合側に付く人など大人はもとより子供達にも2つの派閥が生まれ街全体に険悪なムードが漂った。

三井三池炭鉱爆発事故」はこちらから。


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