白鳥事件


−経緯−

昭和27年1月21日午後7時30分頃、札幌市南六条西16丁目の路上で白鳥一雄警部(当時38歳)が自転車に乗り帰宅途中、後ろから自転車に乗って来た男に追い抜きざまに拳銃で撃たれた。白鳥警部は即死。発砲した男は、そのまま自転車に乗って逃走した。

通行人はまばらであったが、数人の目撃者が居た。その一人、北海道庁の職員は《歳は30歳前後でがっしりした体格の男がもう一台(白鳥警部)の自転車の男に話し掛けている様子だった。その直後「パーン」という乾いた音がして話し掛けられていた男が自転車とともに横倒しになった》と証言している。

事件発生の翌22日、日共北海道地方委員会の村上由(ゆかり)が「党と白鳥事件は無関係」との声明をだす。が、その翌日「党との関係は何とも言えない。この事件は愛国者の英雄的行為」である旨の声明を行う。いわば前日の声明を打ち消し犯行は日共の可能性を匂わせた。なぜ前日の声明を否定したのか今でも明確になっていない。また23日には日共党員らが「見よ、天誅遂に下る」というビラを札幌市内で配っている。
そこで警察も世論も日共の犯行ではないかと疑いの目を向ける。

当時の日共は武装蜂起によって革命を達成させる思想が支配していた。特に全国の日共組織の中で北海道の日共は中心的役割を担っていた。が、その組織・活動内容は警察でも殆ど掴んでいなかった。この状況の中、左翼の取り締まり担当であった白鳥警部は次々と日共党員を検挙した。よって白鳥警部は日共連党員から相当恨まれていた。

事件から4ヵ月後、捜査本部は日共の成田という青年から重大な情報を入手する。成田の提供した情報は北海道の日共組織と党員名など警察が喉から手が出るほどの情報であった。この情報によると北海道日共の中心人物は村上国治(札幌地区委員)、佐藤直道(統括委員)らで、天誅ビラを配布したのは村上が発案した。また白鳥殺害は「党の決定」であったなどと述べている。そこで警察は村上・佐藤等を逮捕したが、村上は取り調べで《事件との関係は一切無いと否認する》。

−謎−
「白鳥殺害=日共の犯行」に関しては物的証拠が殆ど無い。村上らを逮捕した後も犯行に使われたピストルすら出てこなかった。警察が主張したのは「村上らは武装蜂起の訓練のため幌見峠で射撃訓練をした。そして、彼らの活動の邪魔になる白鳥警部を射殺した」という一点だった。実際に2年前に幌見峠で訓練のため雪に向かって撃ったとされた弾丸は警察の現場検証で簡単に出てきた。しかも、その弾丸はニッケルメッキの光沢がありとても2年前に射撃した弾丸とは思えなかった。が、警察はこれが証拠であると法廷に提出している。
昭和38年10月、最高裁で村上の懲役20年が確定した。

白鳥警部は、札幌の裏社会の権力者として様々な逸話があった。白鳥殺しは○○信用金庫の理事長が、不正を知られたため殺し屋を雇って殺したのだという噂も流れた。本当に犯人は村上だったのか真相は闇の中にある。

画像
札幌で配られた問題の天誅ビラ


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