金閣寺放火事件


−経緯−
昭和25年7月2日午前3時頃、京都鹿苑寺(通称・金閣寺))の国宝・金閣(舎利殿)が放火により全焼した。この放火で応永4年(1397年)足利義満が建立した3層構造の美しい舎利殿とともに足利義満の木像、運慶作の観音菩薩像、阿弥陀如来像や経巻、仏教本など貴重な国宝が全て焼失し灰となった。

消防隊員が第一報で駆けつけた時には、既に舎利殿から猛列な炎が噴出して手のつけようがなかった。早朝、鎮火した現場に蚊帳のつり手、布団生地があったことから不審を抱いた消防隊員が西陣署の警察官に連絡し共同調査を実施した。警察は、金閣寺の住職・村上慈海氏やその徒弟、事務方から事情聴取したところ徒弟の1人で林養賢(当時21歳)が居ないことが判明。庫裡にある林の部屋を調べたところ蚊帳、布団などが無かったことなどから林養賢が放火したと断定し行方を捜索した。

警察、消防団が付近一帯を捜索していた同日午後4時頃、金閣寺裏にある左大文字山に薬物を飲み刃物で腹を刺してうずくまっていた林養賢を発見し放火の容疑で逮捕した。林養賢は自殺を図ったが刺し傷は致命傷に至らず薬物も病院で胃洗浄した結果、命に別状は無かった。逮捕当初、林養賢は「世間を騒がせたかった」、「社会への復讐のため」などと動機を自供し素直に犯行を認めた。

−動機−
林養賢は昭和4年3月19日、京都府舞鶴市成生の貧寺・西徳寺の住職・林道源の長男として出生した。林養賢は生まれつきの吃音で、このことが死ぬまでトラウマとなる。父親の道源氏は結核を患っており住職としての役務も満足に勤められず寝たっきりの状態だった。成生の檀家は僅かに22戸(当時)で経済的にも困窮していた道源氏は43歳で死ぬ直前、伝手を頼りに金閣寺住職の村上慈海氏へ子供の養賢を弟子にして欲しいとの手紙を出す。これが受け入れられて昭和18年3月18日、金閣寺にて得度式を行い養賢は正式に村上慈海氏の弟子となった。

病気療養のため一時、成生の実家に戻っていた養賢は終戦間もなく、再び金閣寺に戻った。ここで、村上慈海氏の理解を得て中学を卒業し大谷大学へ進学した。犯行当時は大学3年に在学していたが、入学当時から比較して成績は下がる一方で登校もしなくなっていた。

養賢は数年前から金閣寺に疑問を抱いていた。臨済宗相国寺派の禅寺である金閣寺の実体は「観光客からの拝観料による」潤沢な寺である一方、金銭欲を持たず自身を無にする禅寺修行が行われず拝金主義であったこと。得度を授かった徒弟より観光客の管理、運営に携わる事務方が幅を利かせていることに養賢は嫌気をさしていた。

また、養賢自身も父親と同じ結核に怯え悩んでいたこと、息子が金閣寺の住職に出世することだけを唯一の楽しみとしていた母親の過度な期待など様々なことが養賢を取り巻いていた。

昭和25年12月28日京都地裁は養賢に懲役7年を言い渡した。昭和30年10月30日刑期満了で京都刑務所を出所したが結核と重度の精神障害で京都府立洛南病院に入院したが翌31年3月7日午前11時10分に死亡した。

作家の三島由紀夫は、この事件をモデルに「金閣寺」を発表した。三島は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と見る。水上勉は「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と見る。真実は今でも判らないまま養賢は、息子の放火後、汽車から飛び降り自殺した母親と共に青葉山麓の安岡部落の共同墓地に眠っている。


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