土田警視庁警務部長邸・爆破事件


−経緯−
昭和46年12月18日午前11時頃、東京都豊島区雑司が谷の土田国保警務部長の私邸に届けられたお歳暮に見せかけた爆弾が爆発した。この爆発で土田警務部長夫人・民子さんが手足がバラバラになり即死。近くにいた長男(当時13歳)も爆発の破片を浴び、火傷で重傷を負った。新築したばかりの土田邸は1階の居間を中心に爆風で粉々になった。民子さんの死体も当初、本人か祖母なのか見分けがつかないほど無残な状態だった。

この頃、一般市民を巻き込んだ無差別テロが相次ぎ日本の治安は最悪だった。昭和35年の「安保闘争」を契機に左翼の分裂が始まった。「銃から革命が生まれる」という川島豪革命論で《京浜安保共闘》を結成。土田邸爆破事件のちょうど一年前の昭和45年12月18日午前1時30分頃、東京都練馬区上赤塚交番を襲撃した。主犯は京浜安保共闘最高幹部・柴野春彦(当時24歳・横浜国立大4年)ら3人で、勤務中の警察官に銃を持って襲い掛かった。この内、立番していた高橋巡査が重傷を負い、応戦した阿部巡査長が柴野を射殺し2人を検挙した。

警視庁では、柴野の一周忌にあたる昭和46年12月18日を特別警戒していた。現に、京浜安保共闘は毎月18日前後に警察署、交番、独身寮など警察機関に対する爆破テロを繰り返していた(同年8月7日警視総監公邸爆破(未遂)、9月18日高円寺交番爆破など)。また、警察関係以外では西新橋の日石本社ビル内の郵便局に爆弾小包を届けて爆破させたり、栃木県真岡市の塚田銃砲店から散弾銃11挺、弾薬2800発を強奪した。尚、この強奪した武器は、後に京浜安保共闘と赤軍派が結党した《連合赤軍》による「あさま山荘・連合赤軍事件」で使用されることになる。

土田警務部長は事件当日の午後4時、記者会見で「私は犯人に言う。君等は卑怯だ。家内に何の罪もない。家内の死が一線で働いている警察官の身代わりと思えば・・・二度とこんなことは起こしてほしくない。君等に一片の良心があるならば」とコメントした。

−無罪−
昭和48年3月12日、警察の懸命な捜査により革命運動家の増淵利行(当時27歳)をはじめ18人を殺人・殺人未遂容疑で逮捕した。が、捜査過程での捜査当局のデッチ上げが公判中に明らかになり昭和60年に相次いで「無罪」となった。3414日の拘置をしいられた増淵ら6人は国と都に対して刑事補償と費用費計1億7200万円を求める請求を東京地裁に提訴した。が、東京地裁は訴えを退けた。平成13年12月25日東京高裁は1人に限ってのみ都に100万円を支払うよう賠償命令を下した。これだけの大事件でありながら、結局真犯人の検挙が出来なかった。

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爆破直後の土田邸


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