兵庫・菅野村老婆殺人事件


−経緯−
昭和24年6月10日午前1時頃、兵庫県菅野村の主婦・山本宏子(当時34歳)は同村の天見福松宅に忍び込み金目の物を物色中、福松の妻・かね(当時69歳)に「見られた」と思い込み持参した鎌で就寝中のかねを突き刺して殺害した。その後、現金1万8000円と衣類・雑貨類100点余りを盗んで逃亡した。その際、証拠隠滅のため近所から落ち葉を拾い集めて死体をかぶせた布団の上に置き火を点けた。

山本は、父無し子として育った。福松は不憫に思い実の娘のように可愛がり、山本も実の父親のように慕った。福松は、事件以前から肺結核をわずらい自宅1階で病臥していた。妻のかねは、感染を嫌って2階に別居しており夫婦仲は冷め切っていた。

事件の1日前、山本は生活苦のため借金を頼みに福松宅へ訪問した。が、かねは山本を罵倒するだけで話にならなかった。足を棒にして心当たりを歩き回ったが結局金はできなかった。虚しく自宅に戻ると病身で失業中の夫から「また借金返済の催促があった」と告げられた。この頃、山本は4人の子供を抱えており、闇米屋などして窮地をしのいでいたが、万策尽きた状態であった。そこで、恩人である福松宅に窃盗目的で侵入し、かねを殺害したのだった。

自宅が全焼する前に逃げ出した福松は、犯人は「山本宏子」であると直感した。このため妻殺しと放火は「自分の犯行である」と警察に自供し山本をかばった。しかし、その福松は事件から3日後に病死した。

−戦後女性死刑囚、第一号−
事件から5日後の15日、警察は山本の犯行とみて殺人及び放火の容疑で逮捕した。警察の取調べに山本は素直に自分の犯行であることを認めた。同年12月26日神戸地裁姫路支部は山本に死刑を言い渡した。昭和25年9月大阪高裁は山本の控訴を棄却。昭和26年7月10日最高裁も一審を支持して山本の死刑が確定した。ここに、戦後女性死刑囚第一号となった。

だが、世論は山本の不幸な生い立ちに同情する声が高まり、昭和26年の「講和恩赦」願いで法務府(現、法務省)の特別のはからいで執行期限の延期、恩赦審査の動きがあった。しかし結果は恩赦は無かった。

死刑確定から2年半後の昭和29年2月、マスコミを通じて山本が支離滅裂な異常言動が見られ精神疾患があることを明らかにした。死刑確定直後までは、処刑時の心得を刑務官に訪ねたり冷静に過ちを振り返るなど模範囚であったが、恩赦棄却のショックは相当大きかったものと思われる。

昭和44年9月2日山本は特別恩赦となった。だが、もうその時は「何の反応も示さない」状態までになっていた。昭和52年7月29日に死刑執行停止措置となり奈良県の国立療養所に移されたが7ヵ月後の昭和53年7月29日に肺結核で死亡した。最後まで、正気に戻らないままの戦後女性死刑囚第一号だった。享年62歳。


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