伊藤律・帰国事件


−経緯−

昭和55年9月3日午後1時45分、日本共産党No.2(昭和20年代前半当時)で潜伏先の中国で死亡したと思われていた伊藤律(当時67歳)が中国民航の臨時便で帰国した。羽田空港は300人以上の報道陣が詰め掛けて騒然となった。伊藤律は報道陣のフラッシュの中を濃紺のスーツを着て車椅子に乗って現れた。伊藤律は昭和26年9月に忽然と姿を消した日本共産党の大物政治局員で実に30年振りの日本帰国となった。

−スパイ容疑−
伊藤律は太平洋戦争直前の昭和16年10月に起きた「ゾルゲ事件(当時のソ連が日本に送ったスパイ事件)」で北林トモ検挙に関連して、彼女を特高に「売った」とされた。終戦後の昭和21年2月、自由法曹団が警視庁から戦前・戦中の資料を押収した。この中で、伊藤律が北林を「売った」証拠がでてきた。が、当時の伊藤律は頭脳明晰で日本共産党のNo2にまで上り詰め、中央委員から政治局員へと異例の大出世を遂げていた。このため、日本共産党は「売った」事実は無いとして闇に葬った。

ところが、昭和24年2月10日、米国陸軍省はウイロビー報告で「ゾルゲ事件」の全容を明らかにした。これによって、日本共産党は伊藤律が「党を裏切った密告者」であると断じた。伊藤律はこれに反論したものの昭和25年6月に突如姿が見えなくなり地下に潜行した。それ以降、伊藤律の消息はまったく掴めなかった。

日本共産党は昭和28年9月、伊藤律をスパイとして処分し除名した。さらに昭和30年には六全共で除名が確認された。公安当局も伊藤律は昭和45年6月に中国で死亡したと判断し捜査を打ち切った。

−「幻の記者会見」事件−
昭和25年6月に指令したGHQのレッドパージによって日本共産党の幹部達は地下に潜行した。特に日本共産党の大スターである伊藤律の行方はGHQもさることながら日本政府、警察、国民の注目するところとなった。が、伊藤律の行方は杳として掴めなかった。

マスコミは伊藤律との接触は大スクープになると大捜索を行う。このような状況下で同年9月27日の朝日新聞の三面に「伊藤律との記者会見」が掲載され社会に衝撃が走った。これによると<神戸支局の記者が目隠しをされて神戸の潜伏先の山奥で3分間のインタビューに成功した>となっていた。が、この一大スクープは3日後の30日付けの朝日新聞で「記者会見は捏造だった」と謝罪文を掲載した。さらに、この記者は「勅令第311号違反」で逮捕され、朝日新聞社はGHQ新聞部長宛てに謝罪文を提出した。

当の伊藤律は昭和26年9月に日本を脱出し中国で生きていた。が、帰国後の伊藤律は脱出の経緯、ゾルゲ事件での裏切り行為の真偽、帰国までの活動その他の事実を一切語らなかった。


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