長崎・西肥バスジャック事件


−経緯−

昭和52年10月15日午前、長崎県平戸口発長崎行きの西肥バスが国道206号の大村市付近で「アソレンゴウ セキグン」と名乗る2人組の男に乗っ取られた。2人は乗客と運転手に向かって銃や爆弾(模造)を見せて脅した。途中、バスの燃料が無くなりガソリンスタンドに立ち寄った。給油中、運転手から「バスが乗っ取られている」ことを告げられたスタンド従業員は直ちに警察へ通報した。

連絡を受けた長崎県警は午後1時30分に給油中のバスを発見。直ちにバス後部にあるエンジンルームを開けてエンジンコードを切断。走行不能にした。犯人側も乗客5人の解放と引きかえに食料・水を要求し長崎県警は応対した。だが残る10数人の人質解放には強く拒否した。

犯人側は10数人を人質に捕ったままバスのブラインドを降ろさせるなど長期戦の構えを取った。また、「瀬戸山法務大臣(当時)、新自由クラブ代表・細川隆元(当時)を連れてこなければ交渉には応じない」とコメント。これには長崎県警も<赤軍派とは無関係では>と疑問を持った。

が、おりしも17日前の「日航機・インド・ダッカハイジャック事件」で日本政府は人質の解放と引きかえに身代金16億円と釈放犯6人の解放を実施して国内はもとより世界中の非難を浴びたばかり。これ以上、犯人の要求を聞き入れる訳にはいかないと強行策の検討が始まった。

−強行突入−
長崎県警は同型バスを用意して機動隊が何度も突入訓練を行った。事件から18時間後の16日午前4時25分、長崎県警は人質の体力が限界とみて強行突入を命令した。機動隊は一斉射撃をしながらバス内に突入し主犯の川崎久之(当時31歳)を射殺。共犯のA(当時39歳)は重傷を負ったものの一命は取り留めた。人質は全員無事に救出された。

犯人が警察によって射殺されたのは「ぷりんす号・シージャック事件」に続いて2件目。だが、生き残ったAはその後の裁判で懲役6年が確定。川崎が生きていれば懲役8年程度と推定され、強行突破で犯人を射殺しなければならなかったのか?と疑問を呈する声もあった。すなわち、赤軍派による凶悪犯罪(ダッカハイジャック・よど号ハイジャック事件など)に対して警察(政府)の強行姿勢を内外に示す行為として「政治的判断の強い救出策」と言われたのは、このような背景があったからだ。


ホーム

inserted by FC2 system